「八月一日、天皇は南淵〈みなぶち〉の川上においでになり、跪〈ひざまづ〉いて四方〈よも〉を拝し、天を仰〈あお〉いで祈られると、雷鳴がして大雨が降った。雨は五日間続き、天下はあまねくうるおった。国中の百姓は皆喜んで、『この上もない徳をお持ちの天皇である』といった」(現代語訳)。

 『日本書紀』には、日照〈ひで〉りに民や蘇我〈そが〉氏が雨乞いしてもほとんど降雨が得られなかったところ、皇極が祈るとたちどころに大雨になったと記され、皇極が巫女〈ふじょ〉的な要素を具〈そな〉えていたのではとする見方もあります。

 もちろんそうした側面があってもよいのかもしれませんが、そもそも雨乞いは中国的な風俗で行なわれたもので、必ずしも土着の、日本の巫女的なものではありません。従ってこの記述は、皇極の巫女性というよりも、天皇の霊験〈れいげん〉があらたかであることを表現したものととらえるべきでしょう。

 さて、皇極朝の頃、中国大陸では唐〈とう〉が膨張〈ぼうちょう〉し、朝鮮半島諸国にも政治的影響が及ぶ中、半島で政変が起こりました。高句麗〈こうくり〉では六四二年(皇極元)、大臣が国王を殺害し、政権を握るクーデターが勃発〈ぼっぱつ〉。また百済〈くだら〉では六四三年に国王の母が没すると、国王の弟や子どもが島に追放される事件が起こります。

 こうした半島での政変の情報は、倭国にさまざまな波紋を投げかけました。貴族が実権を奪った高句麗型の政変と、国王が権力を集中した百済型の政変です。当時、政治の実権を握る蘇我本宗家〈ほんそうけ〉にすれば、飛鳥でも何か不測のことが起きるかもしれないと感じたことでしょう。邸宅の門周辺に武器を備えたり、火災除〈よ〉けの水桶を置いたりしたといわれます。

 緊張感に包まれた六四五年六月、皇極の息子・中大兄皇子と、中臣鎌足〈なかとみのかまたり〉が謀〈はか〉り、板蓋宮〈いたぶきのみや〉で「三韓の調〈みつち〉」を献上する儀式の最中、権力を一手に握る蘇我入鹿〈いるか〉を暗殺しました。皇極天皇が臨席し、群臣が居並ぶ場においてです。

 入鹿の死に、父・蘇我蝦夷〈えみし〉も自尽〈じじん〉し、蘇我本宗家は滅亡。「乙巳〈いっし〉の変」と呼ばれるこの政変は、大化〈たいか〉の改新〈かいしん〉の始まりとして知られます。

 乙巳の変は単に権力を握る蘇我本宗家を倒しただけでなく、蘇我氏を代表とする貴族政権に、王家が鉄槌〈てっつい〉を下すという意味を持っていました。そしてこの時、皇極が譲位します。当時は「終身王位制」ですが、皇極が譲位に踏み切ったのは、女性ということもあったのでしょう。そして、貴族は介在せず、王家の意思で新帝を決め、皇極の弟・軽皇子が即位することになりました。孝徳天皇です。

 乙巳の変を機に行なわれたのは、いわば天皇側の権力の奪還と集中であり、また皇極の生前譲位は、王家の自律的意思によって皇位継承がなされることを内外に示したものといえるでしょう。
酒船石(明日香村提供)
酒船石(明日香村提供)
 皇極の譲位後、軽皇子が即位したのは、やはり適齢の問題と考えられます。かつては実質的トップが中大兄で、孝徳天皇はロボットだったという説が有力でした。しかし、実際は天皇が認めなければ詔〈みことのり〉は出ませんので、最近は孝徳を評価する動きがあります。

 では、譲位後の皇極の政治的影響力はどうであったのでしょうか。皇極は「皇祖母尊〈すめみおやのみこと〉」と呼ばれることになり、天皇、皇祖母尊、太子(中大兄)の三人が群臣を招集して誓約を行なって、政治的意思統一を図りました。