同趣旨のことは後年に至っても問題視され、ポルトガル人が購入した奴隷の少女と破廉恥(はれんち)な行為をし、また渡航中に彼女らを船室に連れ込むことは、決して止むことがなかったと言われている。

 これまでは特に触れなかったが、実はこうした性的な不品行が豊臣秀吉の逆鱗に触れたようである。コエリョは、次のように報告している。

秀吉の家臣が用務を帯びて長崎に来ると、ポルトガル商人の放縦な生活を目の当たりにした。秀吉が言うには、宣教師は聖教を布教するとはいえ、その教えをあからさまに実行するのは彼ら商人ではないか、と。商人は若い人妻を奪って妾とし…(以下略)。

 宣教師は口でこそキリスト教の崇高な教えを説いているが、実態は大きく乖離していた。ポルトガル商人が囲っていた若い人妻とは、奴隷身分だったのだろうか。いずれにしても、キリスト教の教義に沿わない行為である。とにかく秀吉ら日本人は、ポルトガル商人の奔放な行動に手を焼いていたようである。

 このように日本人奴隷でも特に女性は、通常の労働(農作業、家事労働など)にも駆り出されたが、ときに性的な対象として悲惨な処遇を受けることがあった。多くの日本人の女性奴隷は、性的な関係を望まなかったのではないだろうか。ただし、中には生活のためにやむを得ず、そうした道を選ばざるを得なかった女性がいたのかもしれない。女性が悲劇的な一面をもって奴隷となったことを見たが、奴隷となった男性はいかなる運命をたどったのだろうか。

 1603年、ゴア市民からポルトガル国王に陳情書が提出された。次に示す通り、そこには興味深いことが記されている。少し長いが、引用しておこう。

 日本人奴隷は近隣のイスラム教国へと公然と売られ、毎年船に積まれて、ついに彼らはイスラム教を信仰する。われら(=ゴア)のところに来るものは、すべてキリスト教徒になる。それは同時に、陛下(=ポルトガル国王)の臣民が増加する理由です。しかもパードレたちは、二年間のキリスト教の教化を彼らに行ってから解放しています。もし、都合が悪いようなら、彼らを甘んじてイスラム教徒たらしめるため、他国人に買わせることです。インドには日本人奴隷が数多くいて、その主を守護する任務に充てている。その理由は、ポルトガル人の数は最小の城を守る数にも足りず、有事の際にポルトガル人一人が鉄砲を携え、奴隷五・六人を率いれば、日本人は甚だ好戦的なので、その値打ちは少なからずある。それゆえ奴隷を解放したのち、我ら(=ポルトガル人)の敵と通謀して、反乱を起こす可能性もある。また、われらより数が多ければ、われらを殺戮する疑いも否定できない。

 前半部分は奴隷解放に関わるもので、日本人奴隷を解放して、みすみすイスラム教徒に改宗させてはならないという見解である。当時、異教徒間では争いが絶えなかったので、理屈として持ち出したのだろう。この記述から分かるように、インドのゴアにはかなり多くの日本人奴隷が連行されていた。
※画像はイメージ(ゲッティ・イメージズ)
※画像はイメージ(ゲッティ・イメージズ)
 インドのゴアの近隣にはイスラム諸国があり、彼らは異教徒と認識されていた。臣民とある彼ら奴隷は、労務年限が来ると奴隷身分から解放され、ポルトガル国民として数えられたのである。彼らは順次、キリスト教に改宗すべく教えを受けた。奴隷を獲得することは、彼らを異教徒から守る側面があった。

 問題は、日本人奴隷の職務である。彼らの職務は、主人を守ることであった。そして、万が一の時には主人に従って、敵と戦うこともあった。日本人は好戦的であったため、甚だ戦いでは活躍した様子がうかがえる。