また、最近の研究により、17世紀初頭の東アジアにおいて、日本人の多くが傭兵(ようへい)としてオランダなどで雇用されていたと指摘されている。先にも述べたが、日本人は好戦的な民族であり、戦いの能力に長けていた。

 ヨーロッパの本国から兵士を呼び寄せるよりも、はるかに人件費などが安上がりである。実際、オランダでは日本人が良く訓練されており、しかも給与や食費が安く済む、と認識されていた。何よりも驚くのは、オランダが徳川家康と傭兵の供給について、合意に達していたことである。

 同時に重要なのは、日本国内で製造された武器が、オランダなどに供給されていた事実である。つまり、日本は傭兵や武器を供給することにより、東アジアで展開されるヨーロッパ列強の戦争に関わっていたことになろう。

 相当な数の日本人が、東南アジアにおけるヨーロッパ列強の戦争に駆り出されたが、やがてそれも認められなくなる。元和6(1620)年以降、江戸幕府は人身売買、武器輸出、海賊をついに停止した。これは、いわゆる鎖国(海禁)と連動した政策だったといえよう。

 ここでは人身売買と記しているが、実際には雇用(=傭兵)も禁止されていた。これまで安く日本人の傭兵を雇用していたオランダなどは、大きな衝撃を受ける。傭兵ならずとも、武器を購入できないことも問題となった。彼は日本が傭兵などを禁止したため、新たな対応を迫られることになった。

 その後も日本からの奴隷の輸出は問題視されるが、幕府による海禁によって、その数は減少の一途をたどった。それでも、日本人が海外に存在したことは、その後も確認できる。「ジャガタラお春」もその一人だ。

 お春は、イタリア人航海士のニコラス・マリンと母マリアの間に生まれた女性である。お春は、混血児であるがゆえに、ジャカルタ(インドネシア)に追放された。ジャガタラとは、ジャカルタのことである。キリシタンであるお春は、やがてオランダ人のシモン・シモンセンと結婚し、貿易業を営んだ夫と裕福な生活を送ったという。
※画像はイメージ(ゲッティ・イメージズ)
※画像はイメージ(ゲッティ・イメージズ)
 それにしても、東南アジア、ヨーロッパあるいは南米へと渡った日本人は、いかなる気持ちだったのだろうか。現在は情報手段(テレビ、ラジオ、インターネットなど)が多岐にわたっているので、海外の情報は比較的得やすい。ところが、彼らはまったく何の予備知識もなく、突然異国の地に放り込まれたのである。

 今回は、奴隷などとして海外に渡った日本人の実態について触れたが、次回は文禄・慶長の役における拉致、人身売買、奴隷の問題を取り上げることにしよう。

主要参考文献
渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)