それだけではない。中国において、黄龍はのち麒麟(きりん)に置き換えられた。龍、黄、麒麟。すべてのキーワードがここで揃ったではないか。

 こうなると信長が花押(サイン)に麒麟の形象を取り入れたことも含めて、すべてが龍中心思想の世界にあることがハッキリしてくる。

 信長は内大臣に昇進した直後から、家臣に「上様」と呼ばれるようになっている。内大臣は左右大臣の代理を務めることができ、朝議を主宰する者の代理という役職だが、それだけでは「上様」と呼ぶのははばかられるかもしれない。

 当時大名のことは「殿様」と呼び、「上様」と呼ばれるのは国王(天皇)や公方(将軍)ら「最上の主君」だけ(『日葡辞書』)。信長がそれに匹敵する立場にあることが周囲にも認識され、呼称になって表れていた。公家の山科言継の娘が父に手紙で「明年は安土へ内裏様行幸申され候わん」と書き送った「明年」の天正5年、実際に信長が天皇の象徴である龍を完全に乗っ取り、天下の主として振る舞い始めたことがわかる。信長は正親町天皇の嫡男である誠仁(さねひと)親王に譲位させたうえで、新天皇となった誠仁親王を安土城に迎えようと考えていたという。

 そして閏(うるう)7月6日(当時の陰暦ではうるう月があった)、信長は「龍躍池」を取り込んで、内裏の裏鬼門を守る京の新屋敷へ移徙(わたまし)した。

天王寺にある茶臼山古墳。筆者はこのあたりが信長の天王寺砦だったと考える(筆者提供)
天王寺にある茶臼山古墳。筆者はこのあたりが信長の天王寺砦
だったと考える(筆者提供)
 この屋敷が完全に竣工するのは9月末なのだが、せっかちな信長としては、安土城建築開始早々に移り住んだように、のんびりと完成を待つ気はまるで無かったようだ。12日にこの新屋敷で前関白・近衛前久の子、信基(のぶもと。のち改名して信尹、のぶただ)の元服式を執り行うと、翌13日、また瀬田で山岡景隆の城に泊まり、安土へ帰っていった。

 そして8月17日になると、本願寺攻めのため天王寺砦(とりで)に詰めていた松永久秀が突然砦を引き払い、居城の大和信貴山(しぎさん)城に立てこもる。信長への敵対を表明していた越後の上杉謙信が、いよいよ西に出陣する動きを開始しようとしていた。久秀はそれに呼応して信長に奪われた城や権利を回復しようと考えたわけだが、信長が久秀を攻めようと準備を進めるなかの9月29日、『信長公記』に面白いことが書かれている。

「戌刻、西に当って希(まれ)にこれある客星ほうき星出来(夜8時、西の方角にまれに現れる彗星が出現した)」