東洋史家の内藤雋輔(ないとう・しゅんぽ)氏が紹介した『月峯海上録(げっぽうかいじょうろく)』には、朝鮮人奴隷の様子が詳細に記述されている(翻刻は『文禄・慶長役における被擄人の研究』)。内藤氏の研究成果を交えつつ述べておくと、文禄の役と慶長の役とでは、後者の奴隷狩りが圧倒的に多かったという。

 しかも、その被害は圧倒的に朝鮮半島南部に集中していた。文禄の役では朝鮮半島の奥地まで侵攻したが、慶長の役ではそこまで侵攻できなかったのが要因であろう。慶長の役は長期化したものの、勝利の可能性が乏しかったため、奴隷狩りに注力したと考えられる。

 強制的に奴隷として日本に連行された朝鮮人は、主に九州各地に住んでいたが、薩摩・島津氏の領内では、その数が3万7千人にも及んだという。彼らは苗代川(鹿児島県日置市)に集住し、陶工・朴平意(ぼく・へいい)らを中心にして、陶磁器の製造を行った。苗代川窯は白釉と黒釉を用いて、日常的に使用する陶器を製造した。技能集団が日本に根付いた一例である。

 この頃、平戸や長崎は朝鮮半島から連行した朝鮮人を売買するなど、世界でも有数の奴隷市場として知られていた。

 日本人の人買商人のうち、ある者は自ら朝鮮半島に渡海して奴隷を買い漁り、またある者は日本国内でポルトガル商人に転売して巨万の富を得た。彼らはポルトガル商人が持っていた鉄砲や白糸の代価としていたのである。

 ほとんどの奴隷は捨値で売られたというので、薄利多売の様子がうかがえる。日本を窓口にして、多くの奴隷が世界に渡っていったのである。それは朝鮮人だけではなく、多くの日本人が含まれていたことが指摘されている。

 日本人が朝鮮半島で行った奴隷狩りは、どのような形で行われたのであろうか。その点は、次回に触れることにしよう。

主要参考文献