2019年05月25日 18:55 公開

イギリスで2人目の女性首相を務めたテリーザ・メイ氏(62)は、1人目のマーガレット・サッチャー氏と同じく、究極的には欧州をめぐる保守党の内輪もめが原因で、辞任に追い込まれた。

ただし、メイ氏はサッチャー氏と異なり、イギリス史にその名を深く刻む指導者の1人とはならないだろう。歴史に名を残すとしても、少なくとも2016年7月に首相に就任したときに、メイ氏自身が望んだとは違う形になるはずだ。

メイ氏は首相として、国内でないがしろにされた地域に手を差し伸べ、社会の「ひどい不正」を正したいと、そう願っていたのかもしれない。しかし、どういう意欲を抱いていたにせよ、メイ氏の首相としての3年弱を語る言葉はたったひとつ、「ブレグジット」だった。

前任者のデイヴィッド・キャメロン前首相が実施を決めた国民投票で、イギリス国民は欧州連合(EU)を離脱すると選択した。その決定の実現にメイ首相は乗り出し、全方位から押し寄せる波状攻撃を受け止め続けた。どれだけ声高に首相を批判する人でも、驚嘆するほどのたくましさだった。

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閣僚たちの相次ぐ辞任や議員たちの反乱は、普通なら首相退陣につながってもおかしくないことだが、メイ氏は動じなかった。周囲の混乱など気にしていないかのように、「何も変わりない」と議員たちに語り、英国民の「意思」を実行に移すと誓い続けた。議会での権威や、与党・保守党における統率力が失われていく中でも、その姿勢は変わらなかった。

2017年6月の総選挙で勝利していれば、状況は違っていたかもしれない。

だが現実には、メイ氏が望んだような幅広い信任は得られなかった。保守党は下院で過半数を得られず、北アイルランドの民主統一党(DUP)と連立を組まざるを得なかった。

この傷から、メイ氏は回復することができなかった。「メイ氏はブレグジットまでで、その後はもっと国民の人気を得やすい人物が首相になるべきだ」といった感覚が、身内の保守党議員たちにも広がった。

その身内の議員たちは昨年暮れ、メイ氏に対して党首不信任投票を実施。メイ氏は続投する代わり、2022年に予定されていた次の首相選の前に辞任することを約束させられた。

首相は首相で、ブレグジットをめぐる行き詰まりの責任は議員たちにあると批判し、多くの議員を敵に回した。そして遂には、党内の退任要求を受け入れざるを得なくなった。

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党内の敵に対し、メイ氏はEU離脱法案に賛成してくれるなら首相を辞任すると宣言し、自らの首を犠牲にする覚悟を示した。

そういうメイ氏を、保守党重鎮のケネス・クラーク元財務相が「どうしようもない面倒な女」と評したことがある。

メイ氏はその形容を、誇らしい勲章として受け止めていた。

プライベートではドライなウイットの持ち主だと言われているが、公の場では、気さくに振る舞おうとしている時でさえ、ぎこちなく不自然な印象を与えた。メイ氏の本心を読み取るのは、側近たちですら難しかったとされる。

メイ氏が保守党員になった1970年代後半には、恵まれた環境で育った男性が党内で頭角をあらわすのが同党の伝統だった。しかしメイ氏は、ひたむきで目立とうとせず、勤勉な態度で政治に臨み、党内の階段を上り詰めた。

今はまだメイ氏といえばブレグジットのような感じもするが、政治家テリーザ・メイの墓碑銘に刻まれるのはブレグジットだけではない。


テリーザ・メイとは

1956年10月1日に英国教会の牧師の娘、テリーザ・ブレイジアとして英南部イーストボーンに生まれ、オックスフォード州で育つ。彼女が25歳のときに交通事故で死亡した父からは、「すべての人を平等に扱うように」と教わったという。

趣味は料理で、100冊以上のレシピ本を持っているという。2014年にはBBCラジオで、無人島に持っていきたい音楽として、アバの「ダンシング・クイーン」やモーツァルト、エルガーの曲を選んだ。ファッション好きで、ファッション誌「ヴォーグ」を長年購読しているという。

幼いころから、イギリス初の女性首相になるという目標を口にしていたメイ氏は、オックスフォード大学の弁論部(オックスフォード・ユニオン、政界志望の学生が多く集まる)会長だった2歳年下のフィリップ氏と、保守学生の集まりで出会う。お互いに「一目ぼれ」だったという2人は、1980年に結婚した。

地理学の学位を得た後、イングランド銀行に就職。1992年に初めて下院議会選に出馬し、1997年に南東部メイデンヘッド選挙区で初当選。その後ずっと、同選挙区で当選を重ねてきた。

保守党が野党だった1999年に影の教育相となり、2002年には保守党初の女性幹事長になった。

労働党政権の間、党内の権力闘争が続く保守党内で数々の要職を重ねる一方、キャメロン氏やジョージ・オズボーン元財務相といった若手リーダーたちとは一線を画し続けた。

2010年5月の総選挙で労働党が敗れ、70年ぶりの連立政権を保守党が自由民主党と組むことで政権を奪還すると、メイ氏は内相のポストを与えられた。内務大臣は、多くの野心的な政治家に不人気な地位だが、メイ氏は近年最長の6年間にわたり内相を務め、テロ対策や治安対策、移民対策などにタフに取り組む実務家としての評価を固めると同時に、リベラル層からは厳しく批判された。

不法移民取り締まり強化のため、国民医療保険(NHS)や住居の使用を制限したり、「まずは国外退去させてから不服申し立てを聞く」などの強硬策も批判された。

移民問題では、第2次世界大戦後に英連邦諸国から移民した「ウィンドラッシュ世代」の強制退去問題が首相就任後に浮上し、側近のアンバー・ラッド内相(当時)の辞任につながるなど、移民対策はメイ氏の評価に影を落とし続けた。

2016年6月の国民投票の結果を受けて、キャメロン前首相が辞任した後、総選挙を経ずに保守党の党首選で党首となり、首相になった。国民投票前はEU残留派だったが、ことさらに残留を呼びかけて運動することもしなかったため、欧州懐疑派も受け入れられるリーダーとして浮上した。

首相就任後は、「ブレグジットとはブレグジットのことです」を合言葉に、国民投票で決まったブレグジットの実現は政府の義務だと繰り返した。

59歳の首相就任は、1976年のジェイムズ・キャラハン以来、最年長で、子供のいない首相は独身だったエドワード・ヒース(1970~74年)以来だった。

メイ氏はめったに自分の私生活を語らないが、2013年に1型の糖尿病と診断されていて、毎日2回のインスリン注射を生涯続けなければならないことを公表した。メイ氏は、自分の健康問題とは折り合いをつけており、政治活動には影響しないと説明していた。

首相就任の直前には、英紙デイリー・メール日曜版のインタビューで、自分たち夫婦には子供ができないと医師に告げられたことや、夫婦でその悲しみを乗り越えて受け入れたことなどを話していた。

首相就任後には、イギリス内でないがしろにされてきた地域や低所得世帯を支援する方針を強調し、最大野党・労働党の支持基盤を揺るがそうとしていると見られていた。

また、自分自身の首相としての信任を得るために総選挙を実施するのは国益に反するという立場を示していた。

それだけに、2017年4月にいきなり解散・総選挙を発表した際には、英政界に激震が走った。

この方針転換は、南西部ウェールズで休暇中に夫フィリップ氏と散策しながら思いついたものと言われている。当時は労働党に対して20ポイントも支持率でリードしていただけに、EU指導部との離脱交渉を前に、自分の権力基盤を強化し、EUとの交渉を有利に運ぼうとしたのだとされる。

メイ首相は総選挙で、労働党のジェレミー・コービン党首とのテレビ討論を拒否した。自分の人間らしい側面をインタビューで強調しようとすると、そのぎこちなさが際立つ結果に終わった。英ITVの取材で、子供時代の一番のいたずらは何かと聞かれ、「麦畑を中を走ったこと」と答えると、ソーシャルメディアは容赦なくこれをからかった。

それでも、誰もまさか保守党が総選挙で敗れるとは思っていなかっただけに、単独過半数の党がない宙吊り議会の結果が明らかになると、保守党指導部に衝撃が走った。

とはいえ保守党の得票率は、1983年以来最高だった。サッチャー首相がフォークランド紛争直後の総選挙で圧勝して以来の成果だった。しかし、労働党には反・保守党の票が集中し、1945年以来最大の得票の伸び率を記録。保守党は第一党だが過半数ではないという状態になり、政権維持のためにメイ氏は、北アイルランドの少数政党、民主統一党(DUP)との閣外協力を余儀なくされた。

10議席のDUPは強硬なブレグジット支持政党で、そのDUPの支持を必要としたことから、メイ首相がEUとまとめた離脱協定の下院承認を得ようとする過程において、イギリスにおける北アイルランドの地位や、北アイルランドとアイルランドの間の国境の扱いが、大きな難問として際立つようになった。

EU離脱を通告するリスボン条約第50条を発動させ、2019年3月29日までに離脱すると立法へ持ち込んだのはメイ首相だったが、EUと離脱協定は3回も採決にかけたにもかかわらず、下院の支持を得られなかった。ブレグジット交渉を担当した閣僚2人や、ブレグジット推進の「顔」だったボリス・ジョンソン前外相は、次々と辞任した。

党内の離脱強硬派が党首不信任の動議を、そして労働党が首相不信任案を次々と提出。メイ氏はその難局は乗り越えたものの、離脱協定可決に必要な票数だけは、確保できなかった。

メイ氏が就任当初、掲げていた国内活性化の取り組みは多くが後回しになり、ブレグジットが政府や政界の日常を支配するようになった。

それでも3月29日の離脱は実現せず、メイ氏が長く反対していた6月の欧州議会選への参加などを条件に、ブレグジット期限は10月31日に延長された。

与党内の離脱強硬派の抵抗を前に、保守党だけでは離脱協定を下院通過させられないことが再三、明らかになり、メイ首相は4月についに労働党との協力に乗り出した。

その結果、発表された離脱協定の修正案には、EU残留派が強力に求め、離脱派が強力に反対してきた、2度目の国民投票の実施が可能性として盛り込まれていた。

これが最後の決め手となり、閣僚を含め党内の離脱派の支持をことごとく失ったメイ氏はついに24日朝、6月7日に党首を辞任すると発表した。

保守党内の党首選はその翌週から始まり、次期党首すなわち次期首相は7月末までに決まる見通しとなっている。

(英語記事 The Theresa May story: The Tory leader brought down by Brexit