私が大学院生で銀座の小さなクラブでバイトをしていた頃、結婚して15年以上たつ某有名企業の社長から相談をされたことがある。彼は若い時に3歳年下の女性とお見合いに近いかたちで結婚をしたが自然に子を授かることはなかったという。そのことについてはものすごく悲観しているわけではなかったし、妻を大切にしてきたが、せっかく築き上げた財産や会社のことを思うと、50歳が見えてきた頃、やはり自分の子供が欲しいと思うようになった。養子をきちんと愛して育てる自信はない。妻と離婚しようとは思わないが、外で子供を作ろうと思っている。ついては私にそういった子作りに興味がないかを聞いてきた。

 彼は「物分かりの良いうちの妻はきっと理解するだろう」と楽観視していたが、自分の授かることのなかった子供を別の女性との間に作る旦那を見て、何も感じないとは考えにくい。就職活動中だった私は彼の申し入れを真剣に考えることはなかったため、その後彼がどんな選択をしたのかは当然知りもしないが、もし彼が想定していたように子供を作っていたとして、彼の妻が感じたことと、磯野さんが感じたこと、想像を巡らせてもどちらが重くどちらがマシかなんてわからない。人の心理を勝手に決めつけることはできないが、少なくとも、私だったら傷ついたと思う。

 「産まない自由」も「性別による役割からの解放」も叫ばれて久しい。それについて異存を唱えるのはもはや難しいが、産まない選択の傍らで、子育ての苦労や負担を感じている人がいて、そういう人によって社会がある程度の人口を維持し、人口がある程度維持されることを想定してデザインされた社会がその形を保っているのも事実だ。

 「自分の子供が欲しい」と離婚を決意した男性は、たしかに結婚生活について責任を全うしなかったという批判を受け付けるが、社会の維持についてはむしろ責任を全うしようとした、とも解釈され得るわけで、安易な攻撃が無効化されるのは目に見えている。

 そんな事情がある以上、圧倒的な説得力を持って彼の決断をやめさせることはできないだろうし、今後も彼のような選択をする男性が出てくることも否定しにくい。女性にとってそれがどんなに冷酷に思えても、今の時点で止めるのは、離婚を禁止にするか、女性の身体を根元から改造するか、と非現実的かつ不自由な方法しか私には思いつかない。
※写真はイメージです(GettyImages)
※写真はイメージです(GettyImages)
 たしかに社会制度や医療は変化していくが、絶対に変わらないのは、私たち女性の身体が男性の身体とは違うかたちをしていることと、男性が「自分のオンナの」身体を交換することは離婚制度や再婚などによって可能だが、私たち女が「自分の女性としての」身体を新品と交換することはできない、ということだ。最も普遍的かつ、実は最も残酷なのはその事実なのだと私には思える。

 私たちは交換できない身体を抱えて、時に冷たく時に過酷な現実を生きる覚悟と精神力こそ持たなければいけないのだろうし、男性に求められるのは、彼らが愛したり別れたりする相手の女が、そういった現実と向き合っていることに対する想像力くらいのものだろう。想像なんて、と思ってしまうけれど、それでも心のどこかで痛みを想ってくれるなら、私としてもちょっと救われる気がするのだ。