廃墟を前にし、政治家として立つ



 ――それが青雲塾ですか。

 中曽根 そう、青雲塾。私の政治家としてのスタートと生涯は、利権とか、便宜供与とかで代議士になるのではなく、むしろ自分の思想とか、理想とか、国家論というようなものを中心に代議士になったと思います。それは一貫してきたと思います。

 ですから占領中にマッカーサーに建白書を出しました。あれは昭和二十六年(一九五一年)一月、占領政策の是非を論ずる建白書です。GHQに行き、国会課長のドクター・ウィリアムスに会って、プレゼンテーション・トゥ・ジェネラル・マッカーサーと英文の建白書を持っていったのですが、受け取らない。占領下の国民が建白書を持ってきても、GHQは受け取らないという。

 実は、私はその前年にアメリカに行って、上院議員のバークレー外交委員長とタフト上院議員に会ったときに、「マッカーサーの占領政策はどうか」と聞かれた。私は「これは一言では、また短時間では言えないから、日本へ帰って文書で申し上げましょう」と言って帰ってきて、改めて英文にしたためてマッカーサー司令部へ行く前日にアメリカに空送したんです。同じ英文を持ってマッカーサー司令部へ行きましたら、ウィリアムスが受け取らない。そこで、「実はこれはもうきのう航空便でタフト上院議員とバークレー外交委員長に送った」と言いました。彼は驚いて、慌てて読み出したら七面鳥のように顔色が変わりました。それでも彼は「受け取らない」と言うので、私は「勝手にしろ」と帰ってきました。

 あとで聞くと、ウィリアムスは非常に驚いて、すぐにマッカーサーのところへ駆け込んだ。というのはマッカーサーは当時大統領選に出るつもりだったから、アメリカの上院議員の実力者にそういう文書が行ったということは大変な打撃なのです。それでマッカーサーは受け取って、読んでるうちに怒ってしまい、破ろうとしたんです。ところが少し厚い紙で、上と下はボール紙だったから破れないんです。ねじって屑紙箱へ投げたらぽんと飛び出してしまった。そのことがあとの検証でわかったんです。それはアメリカのメリーランド大学の図書館に今でも残ってます。
1986年5月、東京での先進国首脳会議(サミット)に
出席するために来日したレーガン大統領(右)の歓迎
式典(迎賓館)。左隣は中曽根康弘首相

 ――戦後のエピソードの一つですね。

 中曽根 ええ。マッカーサーが怒ったのは、建白書の中にいかなる聖将、ホーリー・ジェネラルといえども、近代的な国民を五年以上も占領統治することは不可能である、という文章があった。それが気に入らなかったんでしょう。

昭和天皇は気概を持たれた聖天子


 ――戦後六十年たちましたが、振り返って印象に残ることがありましたら。

 中曽根 まず第一に感ずるのは昭和天皇です。昭和天皇は、従来の日本の天皇の在り方の最後のお方ではなかったかと思います。昭和天皇の前半というものは非常に苦難に満ちた時代でした。大正天皇の摂政の時代から、関東大震災があり、大不況があり、それから満州事変、日支事変等で国際的に日本がもまれ、苦しみのうめき声を持っていた時代です。ついには大東亜戦争へ突入してしまいました。陛下は非常に平和主義者であられたが、そういう経験をされ、そして占領されて、昭和天皇としてはおそらく日本の皇祖皇宗の霊や歴史に対し甚だ申し訳ない、とお考えになっていたと思われます。

 ですからそういう経験を経て、敗戦後の日本の建て直しに非常に責任を感ぜられた。あの頃一時は天皇退位論もありました。しかし、昭和天皇は自分が責任をもって日本をもう一回回復しなければならないという決意で、全国を行脚されて国民に接触されました。それはやはり日本を回復し、祖先の霊に報いなければならないという大きな責任感と、国を愛する気持ちからおやりになったと思います。

 そういう体験が体に、顔に映っていました。だからある意味において聖天子という印象を私は持っています。総理として天皇陛下に五年間接してきましたから、非常に聖天子、ホーリー・エンペラー、そういう感じがしました。

 天皇としての気概を持たれていらっしゃいました。皇祖皇宗の歴史をうけた天皇としての気概を持たれていた。ですから、例えば宮中でわれわれ少数のものが天皇陛下と会食の栄を賜わった。そういうときに待合室でみんなで話していると、陛下がおいでになって「みなの者、食事に行こう」といわれた。「みなの者」です。やはり厳然たる天皇の威厳を持っておられました。

 今の陛下は民衆的天皇です。例えばお年寄りの養老院などに行かれると、天皇陛下も皇后陛下もひざまずいてお年寄りに話しかけている姿がテレビに映ります。あのような光景を見ますと、昭和天皇と平成天皇では非常に違ったと感じます。片方は歴史と伝統という長い、ある意味においては神秘的なものを背負った天皇ですし、今の陛下はむしろオープンマインドというか、民衆天皇として天皇制を維持しておられる。そういう感じがします。

 また、新しい憲法の下の天皇ですから、政治に対する発言はされません。しかし、大正天皇の摂政以来、長い日本の歴史や政治を経験されていらっしゃる方ですから、政治に対する感覚は非常に豊富に持っておられる。総理大臣以上にお持ちです。それを黙っておられる。私はわりあいざっくばらんに、陛下に国情を申し上げたり、外国の情勢を申し上げましたら、「それからどうした」「それからどうした」と常々ご下問がありました。

 あるとき、ご進講が終わって宮殿の下へ降りてきて自動車へ乗ろうとしたら、宮内庁長官が私を追いかけてきた。それで「総理、総理」というから、「なんだい」といったら、京都大学の猪木正道教授が書いた「近衛文麿論」がある。「あの本は非常に正しく書いてある。それを中曽根に伝えろ」ということを言いました。

 開戦に至るまでのいろいろな過程で日本の重臣の挙措をよく見ておられた。それで頭にあった一つのことを、ある意味においては残しておこうというお考えがあったのかもしれません。