もちろんこのドキュメンタリーでも提示されているように、慰安婦否定派の程度の低い議論もあるのは確かである。明治の初めから「奴隷」と認識されてきた人身売買の事実があっても、まだ「性奴隷」という表現に噛みついているところなど、その一例である。さらに、彼らの最大の錯誤は、まだ当事者が存命である人権問題を、あたかも歴史認識の問題のように取り扱うところにある。さまざまな事情がある慰安婦に対して、「売春婦にすぎない」というのは、「人道開明」の世の中、さすがに理解されるのは難しいのではないか。

 歴史であるからには多面的な見方が必要であり、現代の人権意識で判断されるべきではない。当時の認識から言えば、あれは致し方なかったことだ。恥じる必要はない。そもそも日本が先の戦争は正義の戦争であったし、その一部として理解するべきだ。それに彼らが申し立てていることはウソばかりじゃないか。こういう思いが否定派の根底にあるのだろう。

 私はこの見方にほとんど賛成はできない。それでも歴史は多面的に見なければならないという部分については同意せざるをえない。

 一例として、慰安婦問題について、私たちの政府はどのように対応してきたかと言えば、それは必ずしも現在韓国側が責め立てるほどに酷いものとはいえないという事実がある。

 映画にも少しだけインタビューされている世宗大学教授の朴裕河(パク・ユハ)氏(『帝国の慰安婦』朝日新聞出版)やジャーナリストの松竹伸幸氏(『慰安婦問題をこれで終わらせる』小学館)は、日本政府によってこれまで繰り返しなされてきた謝罪や事実上の賠償の方法について、そこまで非難を浴びるようなものではないと論じている。

 私はこの見方を妥当なものとする。慰安婦問題が政治問題として動き出したのは1991年のことだが、この日本軍関与の責任を認めた、いわゆる93年の「河野談話」の見解を歴代、引き継いできている。国際世論を考えると今後も変更することは当面あり得ないだろう。(参考:「慰安婦問題に対する日本政府のこれまでの施策」外務省)

 補償問題にしても、日韓基本条約の枠組みを維持しながら事実上の政府補償を行った「アジア女性基金」を河野談話の翌年には早々に立ち上げている。アジア女性基金は、日本と同じように「戦時補償は解決済み」とするドイツが、かつてアメリカ在住の戦時強制労働者への補償を行った際の方法と同じものだ。こうして詳細に見ていけば、日本政府は解決に向けて、いたずらに冷淡な態度に終始してきたわけではないことが分かるはずだ。

 ところが、これは韓国ではまったく響かない。そればかりか、ますます問題が悪化するばかりである。そしてそこには韓国側の持つ、解決することができない因子、ナショナリズムの存在が見え隠れしてしまう。

 世界中を見渡せば、隣り合った国で歴史問題や領土問題が存在しない方が珍しいことではある。ましてや「植民地」に(朝鮮は植民地ではないという右派の議論があるようなので、「併合」と言い換えてもいい)した国とされた国の間で、非難の応酬があるのは全く当たり前のことだ。

 よく韓国の「反日感情」だけが特殊であるかのような議論を見かけることもあるが、いたって「井の中の蛙(かわず)」の議論であると言わざるをえない。イギリスとアイルランド、セルビアとクロアチア、ギリシアとマケドニア、インドとパキスタン、タイとミャンマー、フィリピンとインドネシア…と例をあげていけばキリがない。そうして、双方が歴史の中でどちらが正当な歴史観を持つか、延々とさや当てを続け、それは時に流血の惨事にまで発展する。戦争にもなる。

 特に歴史上弱い立場にあり、征服されたり同化されそうになったりした経験のある国家は被害感情を露骨に表に出す。その被害感情は隣国に再び自由を奪われるような事態が起きるのではないかという恐怖を核にして、国民の統一した意思を紡ぎ出していく。犠牲者のナショナリズムと呼ぶべきか、被害感情のナショナリズムというべきか、そのような弱者として自分たちをとらえて国民統合を図る。
(C)NO MAN PRODUCTIONS LLC
映画『主戦戦』(C)NO MAN PRODUCTIONS LLC
 なお、日本の原爆文学や空襲や飢えなどの戦争体験も、このような被害者ナショナリズムの一つだということができるだろう。ただし日本の場合はこれがいたって内向的な風景に収斂(しゅうれん)されてしまうのだが。一方の韓国はどちらかというと、これが世界的には普通と言えるように日本の過去を断罪し、これでもかと追及し続ける。

 私はこれを二つの側面から理解する。

 つまり慰安婦問題は、人権問題として解決するべき必要があり、それは繰り返してはならない歴史として日本は認識すべきものだというのが一つ。

 かたやもう一つは、これが被害者のナショナリズムとして過大に扱われる危険性についてである。ナショナリズムの高揚は、もう一つのナショナリズムにぶつかり合うことで、そちらも激しくさせてしまうからだ。日本の慰安婦否定論の跋扈(ばっこ)はこれが原因といっても過言ではない。