橋場日月(歴史研究家、歴史作家)

 『信長公記』の「客星」というのは、ほうき星を「普段の空では見かけないよそから来た不審な星」と表現する言葉だ。当時の公家、吉田兼見はこれを現代同様「彗星(すいせい)」と10月11日付けの日記に記した。そして「御祈一七ヶ日也(なり)」と続けている。『信長公記』は9月29日にほうき星出現としているが、実際にはそれより早く9月25日頃から観測されたのだろう。朝廷では彗星出現当初から連日祈祷をおこなわせ、17日に及んだということだ。

 ではなぜ、朝廷は祈祷を続けさせたのか。

 当時、彗星は洋の東西を問わず「災いをもたらす魔物の使い」と信じられ、恐れられていたのだ。例えば、鎌倉時代に法華宗を興した日蓮は文永元(1264)年の彗星出現を未曾有(みぞう)の国難がやってくる「大凶兆」とし、4年後に蒙古から脅迫めいた国書が届いたことでその予言が当たったと自負している。

 そんな次第だから、朝廷は日食などと同様に彗星を「ケガレ」として忌んだ。特に、彗星の尾の部分が天空から朝廷の方向へと垂れるのを凶兆とし、祈祷によって彗星がもたらす災厄から逃れようとした。

 これに対して、面白い逸話が残っている。彗星出現のひと月あまり前に、松永久秀が信長から離反して天王寺砦を勝手に退去し、居城の大和・信貴山城にこもってしまった話は前回に紹介した。
安土城天主跡。彗星はこの方角の上空に見えたと考えられる(筆者提供)
安土城天主跡。彗星はこの方角の上空に見えたと考えられる(筆者提供)
 久秀は越後の上杉謙信が上洛(じょうらく)戦を開始するから、信長の命運も尽きたと考えて反旗をひるがえしたのだが、肝心の謙信は9月23日に加賀・手取川の戦いで柴田勝家らの織田軍を簡単に撃破はしたものの、そこで引き返してしまったあげく翌年3月に急死し、上洛戦は永遠に実行されることはなかった。久秀の決断は早すぎたのだ。

 10月3日、織田信忠(信長の嫡男)が率いる4万の大軍が信貴山城を包囲すると、さすがの峻険(しゅんけん)な山城も10日には最後の時を迎える。城内の味方が寝返ったとも、本願寺の援軍と偽って城に入った佐久間信盛(織田家重臣)の兵が内から攻撃したともいうが、いずれにしても城は天守を除いてすべて織田軍に制圧されてしまった。