信貴山の頂きからも、夜空に輝く彗星はクッキリと見えたという。久秀の家来が、彗星を見上げて主人にこう話しかけた。

「京の卑しい者たちがあの星を『弾正星』などと呼んで殿の滅亡を天が告げているなどと申しておりましたが、その予言が当たってしまいましたな」

 久秀の官途名は「弾正少弼(だんじょうしょうひつ)」。しかし、久秀は西の空に輝く彗星をチラリと眺めると大笑いしてこう言い放ったという。

「ばかな。彗星が現れるのは天文自然の理に従っているからに過ぎぬ。わしも信長も、天の摂理には何の関係もない。わしが死のうと生きようと、彗星の運行に影響などあるものかよ」

 直後に天守も陥落、久秀は炎の中で自刃して果てたが、当時の一般人のレベルからはかけ離れた合理主義、科学的思考法には感心するほかない。

 では、対する信長はどうだっただろうか。合理主義の代表のように言われる信長のこと、さぞや彗星など一顧だにしなかったかと思われるのだが、実はそうでもなさそうだ。

京都市妙恵会墓地の松永久秀・久通父子墓(筆者提供)
京都市妙恵会墓地の松永久秀・久通父子墓(筆者提供)
 彗星出現の期間中、信長は安土から出ていない。いや、9月28日と29日の2日間だけ出るには出たが、それは安土の内の丹羽長秀の屋敷だった。安土の山頂に近い御殿から長秀屋敷に移ったのは、実はこういうことではないだろうか。

 朝廷は日食のケガレを避けるために御所をムシロで包んだり、祈祷をさせたりする。そして、この彗星出現に際しても祈祷をおこなわせた。信長も、彗星をケガレとして避けるため、自分の御殿より低いところにある長秀の家に逃げ込んだのだ。その上で、彼は自分が大和国におもむいて軍勢を指揮することもなく、信忠に久秀退治を任せてしまった。ようやく彼が安土を出、京に向かったのは11月になってからのことだ。

 『信長公記』は久秀滅亡について「10年前の10月10日夜に東大寺の大仏殿を焼き討ちした久秀が同じ10月10日夜に死んだのは、因果応報だ。客星が出て来たのも、春日大社のおぼしめしか」と論評している。前半はどうも久秀の最期をリアルタイムに記録した『多聞院日記』を参考にしているようだが、それに織田方の都合の良いように彗星の件をプラスしているあたり、その親分の信長本人が彗星を怖がっていたとすればちょっと笑える話ではある。