ところで、この彗星は信長と朝廷の関係にある影響を及ぼした可能性もある、と言ったら皆さんはどう思われるだろうか。日本では古代から現代に至るまで、おおよそ75年前後の周期で彗星が観測されている。これがハレー彗星だ。

 周期を持つ彗星があるという認識が、久秀の「彗星は天文自然の理で動くのだ」というセリフにも結びつくわけだが、周期があるものなら予測ができる。予測ができれば、それが暦にも反映できたはずだ。

 ところが残念ながら、この天正5(1577)年の彗星はハレー彗星ではなく、突発的に起こった非周期のものだったようで、当然ながら朝廷の天文方はその予測ができなかった。彗星を恐れた信長としてはこれに納得しなかったのだろう。5年後、朝廷の天文方が日食の予測も外すともう許せないとばかりに改暦を朝廷に申し入れることになる。同年に発生する本能寺の変の一因にもなったのではないかといわれる改暦問題が、この彗星一件に端を発していると考えるのは、決して無理な話ではない。

 こうして二条新屋敷の竣工と彗星のショックで天正5年は終わった。明けて天正6(1578)年。2月29日の安土山は人々の喚声にあふれていた。

「近江の国中から300人の相撲取りを呼び集め、安土山で相撲をとらせてそれを見物された」のだ(『信長公記』)。信長の御前で相撲をとるとあって、力自慢の相撲巧者たちはこぞって張り切り、勝負は熱を帯び、信長以下の見物者たちも大いに盛り上がった。

 ちなみにこの日の行司は木瀬蔵春庵(きのせ・ぞうしゅんあん)と、その子だろうか、木瀬太郎大夫(きのせ・たろうだゆう)の二人だった。蔵春庵はこの8年前、安土山下町の常楽寺で行われた相撲大会でも行司を務めている。ちなみに、現代の大相撲の行司、木村家は木瀬太郎大夫の孫を初代とするといわれているから、信長以来の相撲行司の系譜は540年続いているわけだ。

 まぁ、これだけなら信長は相撲好きだった、だけで終わる話なのだが、この半年後の8月15日、彼はさらに輪を掛けた大きな規模で相撲大会を再度挙行している。今度は近江だけでなく京などからも都合1500人にのぼる力持ちと技自慢がわれこそはと集まり、辰刻から酉刻まで(午前8時~午後6時)熱戦がくりひろげられた。
織田信長の上覧相撲(相撲協会提供)
織田信長の上覧相撲(相撲協会提供)
 永田景弘と阿閉貞大(あつじ・さだひろ)という国人領主・城主クラスの外様家臣同士も取り組み、堀秀政、蒲生氏郷ら信長気鋭の側近衆も参戦。安土山は1日中喚声に包まれていた。その音は、おそらく遠く街道を行く人々にも聞こえたことだろう。特に見事な相撲を披露した14人の者は信長の前に召し出され、褒美を与えられ家臣として取り立てられたという。このときも行司は木瀬蔵春庵、太郎大夫の二人だった。