2度にわたる大規模な相撲大会。300人、1500人と部外者を城内に入れてしまえば、セキュリティーの維持も難しいし、何より城の構造がダダ漏れになってしまう。戦国の常識ではおよそ考えられないイベントではあったが、信長はあえてそれを強行した。

 信長自身が相撲好きだったのは間違いない。江戸時代の書物には土俵を考え出したのも信長だとあるほどだ。完成に近づきつつある安土城に多くの人々を集めて一大スポーツイベントを打てば、城の威容を見せて信長の威信を高めるとともに、急速にふくらんで一体感を失った家臣間の交流が進み織田家への従属意識も強くなる。これはリスクを差し引いてあまりある効果だろう。

 だが、信長が狙ったのは果たしてそれだけだったか、というとこれがどうもまだ理由がありそうだ。

 この前後2回の相撲大会のちょうど真ん中の時期、近畿から東海地方が災害に見舞われている。


5月11日から大雨が降りはじめ、13日の昼まで激しく降り続いたために各所で洪水が発生した。賀茂川・白川・桂川が氾濫し、上京の舟橋町では濁流に流されて死者が多数出た。京都所司代の村井貞勝が新しく架けた四条の橋も流されてしまった


 この豪雨は、織田軍の作戦計画にも重大な影響を及ぼした。信長は毛利の大軍に包囲された播磨の上月城を救援すべく武将たちに出動の号令をかけ、自身も5月13日に出陣する予定だったのだが、ちょうどその13日が水害のピークとなってしまったのだ。

 信長の親征となればその兵数は大きいものになる。複数の道路を使い整然と行軍する必要があるが、その道筋はことごとく雨によって分断されていたから、どうにもならない。海上を移動しようにも、大坂湾に出るのも困難な状況だ。結局信長は出陣をあきらめ、上月城にこもった尼子勝久ら3000は孤立したまま降伏、勝久は切腹して果てることになる。
「木造織田信長坐像」=大徳寺総見院所蔵(中田真弥撮影)
「木造織田信長坐像」=大徳寺総見院所蔵(中田真弥撮影)
 水を利し、雨を制して過去の合戦を勝ち抜いてきた信長が、ここにきて水に妨げられて大きな失点を喫してしまった。これには、信長もショックを受けたに違いない。

「先日の相撲大会ではまだ足りなかったか。もう一度行うべし」

 豪雨災害を挟んでの2度の相撲大会に潜んだ信長の目的とは、何だったのか。