平本淳也(元ジャニーズ所属タレント、作家)

 ジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長がこの世を去った。救急搬送されたニュースが流れてから3週間、僕の脳裏には、ジャニーさんと出会ったころの思い出が走馬灯のようによみがえっていた。

 87歳という年齢に加え、重い病状だっただけに覚悟はできていたが、もし神が願いを叶えてくれるのなら、せめてあと1年少々でいいから、ジャニーさんの寿命を延ばしてもらえないかと祈り続けた。そう、ジャニーさんは2020年東京オリンピック・パラリンピックを自身の集大成にする強い思いがあったからだ。

 僕とジャニーさんとの出会いは、およそ40年前、僕が夢見る中学生のときだった。ある日の深夜、父親から「ジャニーって人から電話だ」と言われ驚いた。「ジャニーだけど」。受話器の向こうから怪しげなオジサンの声がした。ジャニーズ事務所? 僕は数カ月前、ジャニーズ事務所に「履歴書」を送っていたのだ。その返事だと直感したが、まさか本人から電話があるなど想像もしていなかっただけに、動揺が隠せなかった。これがジャニーさんと初めて繋がった瞬間だった。

 ジャニーズ事務所に送った僕の4枚の写真とプロフィルは、約3カ月経ってジャニーさんの手に渡り、その写真を見ながら電話をしてくれたのだが、中には応募してから2年後に連絡が来るケースもあり、僕の場合はかなり早かったようだ。

 ジャニーさんは電話で「いま写真を見たよ、今度の日曜日遊びに来れるかい?」とフレンドリーだった。僕は緊張して「はいっ!」と元気よく返事をしてアピールしたつもりだったが、十数年後に聞いた話では「最初の電話のとき、ユー(YOU)はかったるそうにハイ~ハイ~しか言わなかったね。ユーは僕との電話のときいつもダルそうにするんだよ」と言われてしまった。そんな細かいことまで覚えてくれているのがジャニーさんならではだ。

 そもそもジャニーズ内では「ジャニ電」と言われ、ジャニーさんからの「直電」は非常に貴重とされている。通常はハガキか封書で「オーディションの案内」が届くことになっており、直電はめったにない。そんな中で「ユーは3万人の中から選んだ一人だよ」と持ち上げられ、うれしかった。自分で言うのもどうかと思うが、ジャニーさんにかなり気に入られていたようだ。ただ、僕が入って2年くらいすると、中村繁之や大沢樹生(元光GENJI)といった次のお気に入りが続々登場し「ジャニーさんの膝の上」というポジションは奪われてしまったが(笑)。ちなみに「ジャニ電」は、僕がつくったジャニーズ内用語で、今も使われているらしい。

 僕の人生における自慢はもう一つ。ジャニーズ事務所での「4人暮らし」だ。メンバーと言えば、ジャニーさんと田原俊彦(トシちゃん)、近藤真彦(マッチ)、そして僕だ。なかなかすごいメンバーだ、僕以外は(笑)。当時、ジャニーさんの住居でもあった東京・原宿の合宿所にはトシちゃんとマッチの大きな部屋があって、少し狭い部屋には川崎麻世もいた。
ジャニー喜多川さん(イラスト・不思議三十郎)
ジャニー喜多川さん(イラスト・不思議三十郎)
 食事はほとんどジャニーさんが用意してくれて、毎晩のように4人で食事をしていた。ジャニーさんは突然「ユー、お腹すかない?」と、深夜にラーメンを食べに行くことも多かった。よく行ったのが、ジャニーズタレントの間で有名だった「とらの子ラーメン」(当時は麻布)だ。「たくさん食べな」と言って自分のラーメンを僕たちにくれるほどだった。また、大量の弁当やハンバーガーを買ってくることもよくあり、食べきれないときは、「食べにおいでよ」と、知り合いに電話をかけるなど、常に気遣いをする人だった。