朴春琴の激しい要求


 実際に衆院議員に当選した朝鮮人は朴春琴一人ですが、他にも立候補した人は存在しました。代議士としての朴の質問は鋭いものがありました。帝国議会の議事録を読みますと朝鮮名を名乗ったままの朴は、日本国民であることを強調した上で、兵役や参政権の要求を繰り返しています。併合の枠の中で、朝鮮人の地位向上を求めていたのでしょう。

 「朴委員 年々に少なくても二百や三百の人は支那の官民に間違なく虐殺を受けている。(略)殺されながら満洲天地を開拓する皆さんの兄弟、これを今日まで保護したことがあるか(昭和七年六月四日、衆院本会議)」 

 「朴委員 新附二千万ばかりでなく、内地にいる日本国民の中にも不逞が沢山いる。(略)不逞鮮人とか(略)そういう侮辱的の言葉をやって、俺の言うことに従えと言ってもなかなか従いませぬ(八年二月十七日、衆院請願委員会)」

 朝鮮人の利益に立った質問を踏み込んで行っています。政府側は、先に引用した山本大臣(内務大臣)の答弁でもわかりますが、他の内地人代議士向けと同様の丁寧な口調で答弁しています。
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朝鮮総督府の「施政30周年紀念式典」には多くの朝鮮市民が詰めかけた(朝鮮総督府『朝鮮事情 昭和十六年版』)
 昭和10年3月16日の衆院の委員会質疑では、朴は自身の当選について、次のようにも述べました。

 「朴委員 朝鮮においても、朴春琴のように日本人として国家的見地の下に働けば、必ず日本人は将来、朝鮮に生れた日本人に向って、大臣も与えるだろうと、大きな期待を持って臨むようになった」

 朴は戦後、韓国民団中央本部の顧問などを務め、1973(昭和48)年に亡くなりました。韓国では親日派として厳しい目でみられているそうです。日本の帝国議会の議員だったこと自体が韓国では批判の対象になるのだと思われますが、当時、併合継続を前提とすれば朴のような要求があっても不思議ではありません。

 朴春琴の質問の冒頭にある「朴泳孝侯爵が勅選議員」になったとは、朝鮮貴族だった朴泳孝が、帝国議会の貴族院議員に選ばれたことを意味します。朴泳孝は金玉均の同志で、朝鮮の開化党を作ったこともある政治家です。日韓併合に協力し、日本の華族とは別に朝鮮貴族令(明治43年)によって設けられた「朝鮮貴族」に連なりました。

 戦後、日本国憲法第十四条にある「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」の「その他の貴族」とは朝鮮貴族を指すそうです。

昭和20年の大転換


 「鮮台同胞国政参与に 畏(かしこ)くも大詔渙(かん)発(ぱつ)」

 これは、昭和20年4月2日付朝日新聞の1面トップ記事の主見出しです。
台湾・朝鮮参政権付与の「大詔渙発」を報じる朝日新聞。隣は「沖縄本島に敵上陸」
 70年前の日本は、朝鮮と台湾に住む国民に、国政参政権の付与を決め、昭和天皇が詔書で布告されたのです。

 同じ日の朝日新聞1面の二番手は、沖縄本島に米軍が上陸したという大ニュースです。読売新聞の1面も同様でした。

 なぜ詔書が出るほど、参政権付与が重視されたのでしょうか。それは、大日本帝国の政治構造を大きく変える決定であったためだと思われます。

 詔書に合わせ、改正衆議院選挙法と改正貴族院令が公布されました。先に貴族院について説明します。朝鮮、台湾に住む国民で名望ある人から、合計10人を勅選議員にするものでした。以前にも勅選の例はありましたが、朝鮮、台湾枠から選ぶのは初めてでした。

 貴族院議員は20年4月3日、朝鮮人7人、台湾人3人が発令されました。戦局の悪化で朝鮮人の貴族院議員は海を渡れず登院できませんでしたが、台湾人議員は実際に登院しています。

 一方、衆議院は、朝鮮は各道を選挙区として合計23人を、台湾は各州を選挙区とし5人を、制限選挙で選ぶことになりました。選挙権は国籍をもつ満25歳以上の男子で直接国税を年額15円以上納めている人に与えられました。すでに内地に編入されていた樺太にも3人の定数を設けています。

 当時、内地の人口は約7000万で464人の議員定数でした。朝鮮、台湾は3000万で定数は28人です。人口比でも内地よりも少ない制限選挙でしたが、徐々に制限を解いていく方針でした。
㊤朝鮮で年々増加した志願兵のための訓練所㊦と実際の教練の様子(『朝鮮事情 昭和15年版』)
 外地の領有が保たれ、選挙が実施できる情勢になっていれば、昭和21年予定の衆院選で外地選出の衆院議員がそろう算段でしたが、戦局の悪化はそれを許しませんでした。

 日本在住外地人の参政権は、昭和20年12月の、女性参政権を認めた際の改正衆院選挙法の付則で停止されています。

 国政参政権は選挙権にとどまりません。官職につくことも含まれます。もともと朝鮮総督府では、13ある道の知事のうち五人は朝鮮人とする慣例がありました。総督、政務総監に次ぐ最高幹部である局長のうち、学務局長に朝鮮人官僚が2回登用された例がありました。

 ところが昭和18年度になると、中央省庁、総督府双方への登用が本格化します。高等文官試験に合格した朝鮮人37人のうち、内務省3人、鉄道省2人、大蔵省1人、文部省1人など12人が中央官庁に、21人が朝鮮総督府に採用されました。キャリア組です。内地人をも統治するポストへ進む若手官僚に選んだわけです。