中村逸郎(筑波大学教授)

 2019年2月7日、どんより曇った寒空のモスクワ市内・クレムリンを臨む一等地に、カフェの「ドクトル・ジバゴ」がある。そのカフェをめざして、わたしは足早に向かった。ソ連の作家ボリス・パステルナークは1917年のロシア革命後に揺れる社会を舞台に、医師のジバゴと恋人ラーラの波乱万丈な人生を描いた。1957年に出版された小説のタイトルが「ドクトル・ジバゴ」である。

 店内は、ソ連社会を想起させる赤色を基調にしたインテリアが目を引く。若いウエートレスたちがひなびた感じのグレーのユニホームを着ているのは、真っ赤な口紅を強調するための工夫なのだろうか。壁には、ソ連社会主義建設に勤しむ労働者の勇姿を描いた絵画がかけられている。

 テーブルは満席で、ソ連帝国の栄華を懐かしがる客たちの熱気が充満している。ソ連を盟主とする共産主義陣営と欧米諸国が結束する自由主義陣営が対峙する「東西冷戦」は、軍事だけではなく文化、スポーツにまで及んだ。アメリカと張り合ったソ連は結果的に敗北したが、ロシアでは往年の栄光に浸る人々が増加している。モスクワ都心にはソ連スタイルのカフェやレストランが人気で、少なくとも15軒を数える。

 その日、私はロシアの友人、ドミートリーと「ドクトル・ジバゴ」で久しぶりに軽めの昼食をとる約束をしていた。真っ白なテーブルクロスが敷かれたテーブルを囲んでドミートリーはシベリア名物のペリメニ(羊肉の水餃子)を口に運びながら、世にも奇妙な物語を披露する。

 「ある日、モスクワの狭い通りを、ロシア男性が運転するソ連製のオンボロ車が走っていました。その前には2台の自動車が快走しており、それぞれの車の運転手は神と悪魔だったらしい。その道の先は、行き止まりになっていた。

 神は急に右折して繁華街が広がる大きな通りに向かいましたが、悪魔はその手前を左折し、路地に迷い込みました。後を追うロシア運転手は2台の自動車の動きを見定めてからどちらに曲がるべきか、迷うことはありませんでした。神を追うかのように右方向のウインカーを出しておいて、実際には悪魔の方に左折しました」

 悪魔を追いかけるロシア人。どうやら建前では神を崇拝するそぶりを見せながらも、悪魔にすっかり魅了されてしまっているようだ。そんなロシア人を率いる最高指導者、ヴラジーミル・プーチン大統領は2016年11月24日、ロシア地理協会が主催するコンテストで入賞した9歳の男児ミロスラフ君の肩を引き寄せ、こう問いかけた。

 プーチン「ロシアの国境線は、どこで終わっていると思う?」
 ミロスラフ「ベーリング海峡のところです」
 プーチン「正しくないね。ロシアの国境線には終わりがないんだよ」

 プーチン氏が意味ありげな表情でニヤリとすると、授賞式の会場から大きな拍手が巻き起こった。少年の言う海峡とは、アメリカ領のアラスカとロシア北東端を隔てる水域だ。ソ連邦の崩壊で領土がすっかり縮小してしまったロシアなのだが、プーチン氏は失地回復どころか、まるで大英帝国に匹敵する「プーチン帝国」を築こうと目論んでいるように私には思える。

 先の友人の例え話には続きがあり、悪魔を追って左折したロシア人を、中国をはじめとしてトルコ、イラン、そしてインド、北朝鮮の各指導者が追随するのだ。私は、まるでロシアが先導する「悪魔の館」に彼らが結集し、暗闇のなかでコソコソと悪巧みするような不穏な気配を感じる。
露モスクワで会談後、合意文書の署名式に出席したウラジーミル・プーチン露大統領(右)と中国の習近平国家主席=2019年6月5日(AP=共同)
露モスクワで会談後、合意文書の署名式に出席したウラジーミル・プーチン露大統領(右)と中国の習近平国家主席=2019年6月5日(AP=共同)
 2019年7月23日、衝撃的なニュースが報じられた。ロシアと中国の爆撃機が約11時間にわたって編隊を組み、日本海と東シナ海の上空で初めての共同警戒監視活動を展開したと言うのだ。極東アジアでの中露による軍事的な存在感を強烈にアピールするもので、日米軍事協力体制の最前線に中露の軍事的脅威が迫っているに等しい。