そして1933年、ドイツでヒトラーが政権を取ると、ユダヤ人迫害が始まった。ユダヤ系ドイツ人は海外脱出を望んだが、米英は長年の偏見で受け入れを拒否した。このため、ユダヤ人は当時唯一上陸可能な支那事変中の上海租界(外国人居留地)への移住を考えた。そこで彼らはベルリンとウィーンの日本領事館から日本通過ビザを取得し、欧州発シベリア鉄道でソ連ウラジオ港へ到達し、敦賀、神戸経由で上海到着を計画したのである。

 しかし、1938年3月8日、幼児を含むユダヤ人旅客が満洲ソ連国境のオトポール駅に到着すると、突然ソ連国家保安委員会(KGB)に極寒の中、全員下車を命じられた。ソ連は彼らを近くのユダヤ人居留区に収容しようとしたという。しかし、ユダヤ人は、断固拒否し、満州国内の極東ユダヤ人協会経由で満洲国政府に通過の許可を嘆願した。これを樋口中将と安江大佐が上申し、東條英機関東軍参謀長が決裁したので満洲通過が許可された。

 これによりユダヤ人は満州を南下し大連、敦賀、神戸経由で上海に到達することができた。樋口中将は欧州駐在経験から残酷なユダヤ人迫害の事情をよく知っていた。上海では日本海軍のユダヤ人問題対策機関「犬塚機関」(犬塚大佐が機関長)が専門にユダヤ人難民を受け入れ、支那事変の物資不足の中でユダヤ教会建設に貴重なセメントを提供し、生徒が帰国した日本人学校の空き校舎を貸与するなど支援した。ユダヤ人の多くは、日本海軍の管理する共同租界の虹口地区に多く住んだが、ほかにフランス租界、米英租界にも居住した。彼らは欧州と違い、収容所(ゲットー)が決められていなかったので自由に生活することができた。

 なお、上海のナチスドイツの総領事はユダヤ系ドイツ人をB級ドイツ人と見なし、日本の管理で手間が省けるとして帰国を要求しなかった。また、イタリア船でもユダヤ難民が多数上陸してきた。

 もっとも、戦時下の日本のユダヤ人救済は人道問題ではあるが、政治的な狙いがあった。それは米F・ルーズベルト政権の厳しい反日敵視政策の緩和だった。というのは、ルーズベルト政権にはユダヤ人高官が非常に多かったからである。財務長官のモルゲンソーは100%ユダヤ人、ハル国務長官は、母親と夫人がユダヤ人、そして政府の部長クラス以上のユダヤ系は250人以上に上ったという。そこで日本はユダヤ協会ルートで米政府の対日方針の緩和を狙ったのである。斎藤博駐米大使もルーズベルトの反日に万策尽き、ユダヤ人の助けを借りるしかないという考えだった。

 しかし、上海のユダヤ人の努力は成功しなかった。それは、米国はキリスト教の国であり、ユダヤ人に対する強い反感があったからである。戦前米国の反ユダヤ団体は400組織、200万人に上り、自動車王フォードまで反ユダヤ雑誌「国際ユダヤ人」を発行していた。このためユダヤ系高官は保身のためルーズベルトの方針に従い外国のユダヤ人同胞の保護ができなかった。
ルーズベルト元大統領
ルーズベルト元大統領
 この悲惨な例として1939年のセントルイス号事件がある。これはドイツから船を仕立てて米国に逃げてきたユダヤ系ドイツ人を、ルーズベルトの命令でハル長官がニューヨーク港で追い返した事件である。この結果ユダヤ人船客はドイツに戻されナチスに処刑された。日本のユダヤ工作は失敗したが、敗戦まで上海や満洲におけるユダヤ人難民の保護は続けた。これは人道政策と言ってよいだろう。

 そして同年9月、上海ユダヤ人協会は犬塚大佐に対し難民救済金が限界(月額27万ドル)に達したので、ビザの発行停止を要望し、日本外務省は了解した。このときまでの上海のユダヤ人人口は1万9千人に達していた。杉原の発行した1500通の十倍以上である。これは重要な数字である。同年12月、日本政府の最高決定機関である五相会議は、ユダヤ人の公平待遇を決定した。追い詰められていた日本にとって、米国の対日政策の緩和は最優先課題であった。