昭和16年の対米英開戦後も、天皇は国家の崩壊を避けるべく、大元帥として国家元首として、軍部や政治家に自らの考えを主張し続けたが、多くは戦争の専門家としての軍部の意見に言い包められてしまった。周囲の意見を尊重する「立憲君主」の立場を採り、独裁権を握らなかったことが、こうした事態の背景にあったと、天皇自身も回想している。

 昭和20年8月、日本国家壊滅の絶体絶命の段階になって、ついに天皇は徹底抗戦ではなく、和平の道を選ぶことを粘り強く推し進めた。これによって日本国家の壊滅は免れたのであった。

 とはいえ、それまでの戦いは、天皇の名の下になされており、国際的にも国内的にも天皇の戦争責任を問う声は多かった。天皇自身、自らが責任を負うことで、長い伝統と歴史のある天皇家と日本国家が存続するのであれば、それも受け入れる覚悟はあった。

 しかし、敗戦後の状況の中で、日本再建の現実的な原動力となるのは、天皇による国民の統合と国家復興の道であることを、連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官のダグラス・マッカーサーはじめ、占領軍の中枢部も理解するようになり、天皇を中心とした日本再建のレールが敷かれていった。

 それでも、世界を戦乱に巻き込んだ日本国家の責任は不問にできず、以後の世界平和のため、日本の戦争放棄と民主主義社会の実現を世界に誓うことを条件として、天皇と天皇を象徴とする国家の再建が容認されたのであった。そのため憲法も大きく変わり、天皇も、現人神(あらひとがみ)から象徴天皇となり、大元帥でも国家元首でもなくなった。

 日本国憲法にある戦争放棄と象徴天皇制は、昭和天皇にとって日本が戦後の国際社会と交わした重要な約束であり、好むと好まざるとにかかわらず、その改正や廃棄は、国際的な信義に反するものであった。昭和天皇は世界を戦場とし、日本国家を滅亡寸前まで導いた自らの道義的責任を、立場上公言することはできなかったが、深く自覚していた。その自覚が、戦後の世界平和と国内の民主化実現への懸命の努力となって現れた。

 そして、戦後の日本は見事に経済成長を遂げ、国際社会に復帰したのだった。平成の天皇も、こうした昭和天皇の胸中を知るゆえに、平和と民主主義を重視して、象徴天皇としての道を歩み、さらに令和の天皇にもそうした流れを踏襲してほしいと願った。

1945年9月27日、連合国軍総司令部のマッカーサー元帥と会見する昭和天皇=東京・赤坂の米国大使館
1945年9月27日、連合国軍総司令部の
マッカーサー元帥と会見する昭和天皇
=東京・赤坂の米国大使館
 戦後、半世紀をはるかに過ぎ、かつての戦争を知らない世代も増えた。しかし、皇室は、その信義上、天皇家と日本国家の壊滅を救うために世界と結んだ約束を反故(ほご)にすることはできない。もし反故にすれば、天皇家は身の保全のために、一時的な口約束として戦争放棄と民主社会実現を述べたのだと、その不誠実さを世界に示すことになるからである。

 少なくとも、昭和天皇とその直系にある皇統のものが皇室を支えている間は、皇室は戦争放棄と民主主義社会の実現を求め続けるだろう。昭和天皇が世界平和を願いながらも太平洋戦争を引き起こしてしまったことで得た大きな教訓であり、後世に残した大きな遺産だからである。

 今後、再び天皇の名の下で戦争が起きてしまうことがあれば、平和を願う天皇をそこまで追い込んでしまったわれわれ国民と、国民が支持する政治家たちの姿勢に大きな責任があることになろう。