西鋭夫(スタンフォード大学フーヴァー研究所研究員)

 米政府は外交文書を30年後に全面公開する。極秘文書であっても30年間で時効となるのだ。これは、米国が偉大な国であるという証しのひとつではなかろうか(日本には時効はない。極秘文書は永遠に極秘だ)。

 1945年は昭和20年。米国の日本占領が始まった年だ。その30年後となる1975年、私はワシントン大学大学院の博士課程で研究をしていた。そのとき、日本占領の極秘文書が公開されることを知り、すぐさま首都ワシントンに飛び、米国立公文書館(National Archives)へ直行した。米国立公文書館には、独立宣言の原文があり、米国政府の重要文書すべてが保管してある。公文書館の建物はほれぼれするほど見事。これは国力か、富の深さか。いや、歴史を大切にする心意気であろう。

 「国務省の1945年度のファイルを見たい」と申し出た。すると、礼儀正しい、度の強いメガネをかけた係員の一人が、私を迷路のように入り組んだ地下に連れて行き、四方に頑丈な金網が張られた小さな部屋に案内してくれた。金網は濃い緑に塗ってあった。

 「しばらく待っていてください」と言う。
 この部屋には灰色の金属性の長方形テーブルが1台、鉄製の椅子が1脚。床はコンクリートで灰色に塗ってあった。身の引き締まる思いがした。15分ほどして、この係員が手押し車に灰色の箱を20ほど積み、ゆっくりと部屋に入って来た。「入って来た」といっても、外からも内からも、係員の動作も私も丸見えだ。

 これらの箱の上には、うっすらと埃(ほこり)が積もっており、それに指紋がついていない。どの箱にもついていない。箱は両手を使わねば開けられないもので、30年間たった後、極秘文書の扉を開けるのは私が初めてかと、興奮した。あの感情の高ぶりは、生き埋めにされている日本の歴史に対する畏敬の念であった。

 公開されたばかりの極秘文書から、当時、日本では知られていない驚愕(きょうがく)する史料が山ほど出てきた。

 ハリー・トルーマン大統領(1884〜1972)は、1945年10月18日の記者会見で、「日本国民が自由な選挙で天皇の運命を決定する機会を与えられるのは良いことだと思う」と発言。ソ連、中国、英国、オーストラリアでは、昭和天皇を戦犯として裁く世論が沸騰しており、米国内でも天皇を戦犯として裁いたほうが良いという意見が強くなっていた。
トルーマン米大統領
トルーマン米大統領
 東京裁判のため、米国からジョセフ・キーナン首席検察官(1888〜1954)が、1945年12月6日午後7時、38名の部下を引き連れて厚木に降りたった。キーナンは、シカゴの大物マフィアであるアル・カポネ(1899〜1947)を告発し、全米で最も悪名高いギャング王を牢(ろう)に放り込んだ敏腕検事だ。

 キーナンは検事総長の補佐官として、全米のギャングや誘拐事件を担当し、才能を発揮した。彼は、暴力団専門であった。日本の「A級戦犯」はギャング集団と見られていたのだろう。
 
 翌12月7日、キーナンは帝国ホテルで記者会見をした。12月7日は「真珠湾攻撃」の日(アメリカ時間)。その日を選んだのは、もちろん偶然ではない。

 問:「天皇陛下をどうか」
 答:「自分の口からは何ともいえない」
 問:「戦争犯罪人の追及はいつまでさかのぼるのか」
 答:「1937(昭和12)年7月である(筆者注・近衛文麿が首相のとき起こった盧溝橋事件にまでさかのぼる)」
 問:「真珠湾攻撃の責任は」
 答:「真珠湾攻撃の責任は爆弾を投下したその人ではなく攻撃計画を立案、実施した人である、自分は日本の侵略戦争、宣戦布告なき戦争を挑発したその罪科を指摘したいと思う」(『朝日新聞』1945年12月8日)

 東京裁判の首席検察官キーナンは、「卑怯者」を死刑にするために来たのだ。ところが、キーナンの態度を急変される事態が起きた。