吉川圭一(グローバル・イッシューズ総合研究所代表)

(近代消防社『救世主トランプ―“世界の終末”は起こるか?』より)
はじめに
 “救世主”という言葉には、この世の大きな問題を解決して人々を救う存在という意味と、この世が悪くなり過ぎたので、リセットのために滅亡させる――即ち“世界の終末”を起こす存在という意味とがある。トランプ氏は“反理性主義”者の部分があるため、この後者の“救世主”になるのではと心配している方も多いと思う。

 しかし理性中心の文明が――グローバル化やインターネットの発達により、それらを使いこなすことが出来るエリートと、そうでない人々の格差拡大などによって――行き詰まりつつあるからこそ、トランプ氏が登場したのではないか。そのような見地から、トランプ政権の今までと今後を考えるべく、この本は書かれた。

 そもそも米英には、理性一辺倒の欧州大陸諸国とは異なる、人間の直観などによる問題解決を重視する特徴があった。そうした文脈からしても、トランプ政権の登場は、決して異常なことではない。

 ただ米英経験論も理性主義的な近代欧州文明との関わりの中で生まれたものである。さらに現代社会は、コンピュータに象徴される究極の理性主義によって動かされている。その中で登場したトランプ氏の思考様式は、単なる反理性主義ではなく、理性主義の限界を突破しようとする“脱理性主義”と評すべきものとも言える。彼への理解が進まないのは、そのためではないか? このトランプ式“脱理性主義”に関しては「バノンとマーサー」という章で詳述したい。

 だが米英経験論と言っても“脱理性主義”と言っても、それは理性を一旦は経由した思想であるから、神のような「絶対者」を前提としない。一方、トランプ氏を絶対的に支持する福音派を中心とする米国の宗教保守派は、「絶対者」さらには「絶対者」のもたらすリセットとしての“世界の終末”を希求している。

 この点に関して私は、次のように考えている。

 キリスト教が欧州文明のものだとすると、アメリカ大陸も日本も異界の地だった。その異界の地でキリスト教が突然変異を起こしたものが、米国における福音派その他の宗教保守派であり、そして日本における芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫の文学ではないか? 米国福音派にしろ、日本の芥川、太宰、三島の文学にしろ、物質世界の存在や理性主義を、人間の純粋精神を抑圧するものとして、否定的に考える傾向がある。
2019年7月7日、米ニュージャージー州の空港で、記者団に語るトランプ大統領(AP=共同)
2019年7月7日、米ニュージャージー州の空港で、記者団に語るトランプ大統領(AP=共同)
 だが、それは物質や理性を重んじ過ぎた結果ではないか。米国は物質や理性を英国より重んじる社会である。芥川、太宰、三島にしても、日本の近代化=物質主義化の過程の中で、理性主義を徹底的に身につけた人々であった。米国福音派の信仰や、芥川、太宰、三島の思想は、理性や物質世界の限界を、米英経験論以上に深く悟ったために出て来たものとも考えられる。

 その観点からすれば、芥川、太宰、三島の最期を、単なる“自殺”と理解するべきではないだろう。一種の「純粋精神」を貫き、物質世界や理性主義の限界を突破して、より高いステージに進んだと理解するべきだろう。そして、それは米国の福音派等が聖書の世界終末の預言を心の底から信じ、リセットとしての“世界の終末”を希求するのと、類似しているのではないか?