武田薫(スポーツライター)

 この度、『オリンピック全大会』(朝日選書)という本を書いた。最初の本は2008年の北京大会の前に出し、今回は北京、ロンドン、リオデジャネイロ3大会を加えた増補改訂版だ。幻に終わった1940年、前回の64年、目前に迫る2020年、三つの東京大会の比較考察も書き加えた。高価な本(税込1994円)だから宣伝して買ってもらおうと思ったわけではなく、書かなかった幾つかのことを思い出したのだ。

 私はスポーツ新聞に11年、勤めていた。野球部、整理部と回り、運動部にいたのは3、4年で長くはなかった。1983年に退社しようとしたら、世話になった先輩に「運動部にとって一番大事なオリンピックが終ってからにしてくれ」といわれ、計画を1年延長し、85年1月に退社してポルトガルに行ったのだ。

 退社の話が進んだ頃、私と同じころに運動部長になった上司から電話がかかってきた。

 「本当はな」と言われたことには、84年のロサンゼルス大会に私を派遣しようと思ったそうだ。デスク全員の反対でそれはかなわなかったと言う。上司の気持ちは有り難かったが、オリンピックはわずか2、3年の経験者を送り出す舞台ではないという理由はもっともだ。何か違うことをやりたかったそうだ。新しい部長にも慰留され、振り返れば、あんなに人に惜しまれたことはその後にはない。

 私は整理部時代、勤めの合間に近くの上智大学でポルトガル語を勉強していた。日本のポルトガル語といえばブラジル関係だが、私はポルトガル本国をイメージしていた。そしてある時、『トラック&フィールド』という雑誌をめくっていたら、ポルトガルが出てきた。

 当時はマラソン全盛で、84年のロサンゼルス大会では瀬古利彦の金メダルは間違いなしと言われていた。福岡国際、東京国際、ボストンと5連勝し、その対抗馬が、いま大迫傑のコーチであるアルベルト・サラザールやロバート・ド・キャステラだった。

 雑誌では、83年のロッテルダムマラソンで優勝したド・キャステラが「ポルトガルのロペスは要注意だ」とコメントしていたのだ。カルロス・ロペスという名前は聞いたこともなく、上智大教授(当時)のジャイメ・コエリョ神父に現地の新聞を見せてもらい、大使館にも行って話を聞いた。当時の大使館の文化担当は映画監督のパウロ・ローシャで「あのヒトは~、すっごいぞ」と教えてくれた。根拠までは言わなかった…。

 そして私は「瀬古に強敵出現」という記事を書き、別に社内では評価されなかったが、瀬古の師匠だった中村清監督が電話をかけてきた。正確には村尾慎悦マネジャーから「どこで調べた」と聞かれた。
ロサンゼルスオリンピック、男子マラソン、力走する瀬古利彦選手(中央)。しかし魔の35キロ地点から遅れ、14位に落ちた。
ロサンゼルスオリンピック、男子マラソン、力走する瀬古利彦選手(中央)。しかし魔の35キロ地点から遅れ、14位に落ちた。
 ロペスは76年のモントリオール大会の1万メートルでの銀メダルを最後に音信が途絶え、82年にいきなり復帰してヨーロッパ記録を出していた。マラソンをやるという話までは聞こえていなかったのだ。

 ロサンゼルス大会で、その37歳のロペスが優勝した。私はレースを池袋の喫茶店のテレビで見た。瀬古が帽子を脱ぎ捨てたのも覚えているが、それをリスボンで見ていたはずだった。翌年の5月、38歳のロペスが2時間7分12秒の世界記録を作ったニュースをリスボンで聞き、86年の東京国際マラソンは途中棄権、それが引退レースになった。