生け捕られた朝鮮人の中には、召抱えられて学者になった者もあった。彼らの多くは両班(やんばん)という、朝鮮の特権支配階級だったと考えられる。その点については、『細川家記』という史料に記されている。

 同書は、全73巻から成る肥後熊本藩主、細川氏の家史であり、編者による書名は『綿考輯録(しゅうろく)』という。『綿考輯録』には、「連綿と考え輯(あつ)める」との意味がある。細川家では、単に『御家譜』と呼んでいる。そして、同書には、学者になった朝鮮人について、次のように記している。

 南条元宅のもとに生け捕られた李宗果という者が日本に残り、のちに豊前へ行って、細川忠利と懇意になり、たびたび御前に召し出された。李宗果の子息の慶宅は8歳であったが、忠利が貰い受け、高本の名字と御紋を与えた。のちに知行を与えられ、医師となった。今の高本慶蔵の先祖である。慶蔵の本知行は200石、足高300石。学校教授職を仰せ付けられた。

 冒頭の南条元宅(姓は小鴨とも)は、もと伯耆国の武将であったが、羽柴(豊臣)秀吉の中国計略に屈し、以後はその配下に収まった。天正10(1582)年6月に本能寺の変が勃発すると、その2年後には伯耆東部に所領を得て、晴れて大名として復帰した。以後、秀吉に従って各地を転戦し、文禄・慶長の役にも出陣した。そのとき、李宗果を生け捕ったのである。

 その後、元宅は主家筋に当たる南条元忠と確執が生じ、肥後の小西行長のもとに預けられた。慶長5(1600)年9月の関ヶ原合戦後は、肥後の加藤清正の家臣となった。慶長19(1614)年の大坂冬の陣において、元宅は豊臣方に与するため大坂城に向かうが、その船中で病に伏し、帰らぬ人となった。李宗果が豊前に行った時期は不明であるが、タイミング的に関ヶ原合戦後だった可能性が高い。

 宗果の子は慶宅と名乗ったが、おそらく元宅の「宅」の字を与えられたのであろう。肥後藩主の細川忠利はその利発さを見抜き、貰い受けて高本姓などを与えたと考えられる。能力が優先され、国籍は関係なかった。

 高本慶蔵は、肥後藩の藩校「時習館」の第4代教授を務めた人物である。その子で5代目の慶蔵は、明和8(1771)年に時習館訓導(教師)に任じられ、天明8(1788)年に教授に就任した。彼は、時習館で国学の指導を行った。

 このように肥後藩では、のちに朝鮮から連行された者の子孫が学者となり、指導的な立場に立った。彼らは並々ならぬ努力をし、その結果、才能が花開いたのであろう。
壬辰倭乱図
『壬辰倭乱図』(和歌山県立博物館提供)
 儒学者といえば、文禄の役で浅野長政の軍に捕らえられ、日本に連行された李真栄(李一恕とも)も有名な人物である。

 李真栄は、朝鮮慶尚道霊山の貴族の家に誕生したという。文禄2(1593)年に捕らえられた時点で22歳か23歳だったので、誕生は1571年か72年ということになろう。身分も高貴であり、前途ある青年だった。

 同年、生け捕りにされた真栄は、羽根田長門守により肥前・名護屋(佐賀県唐津市)に送られた。その後、真栄は大坂で過ごすこともあったが、そのときに紀州名草郡西松江(和歌山市)の西右衛門なる人物に出会い、同地に赴いた。