やがて真栄は、和歌山城下の海善寺の僧である中岸松院西養にその境遇を哀れに思われ、引き取られることになった。真栄は寺に住むことになったが、仏門での生活が肌に合わなかったらしい。しばらくすると、真栄は海善寺をあとにして、再び大坂へと向かった。そして、程なくして大坂冬の陣が勃発したのである。

 慶長19(1614)年に大坂の陣が始まると、真栄は戦火を避けて、再び紀州へと戻った。真栄は有田郡で土豪の末裔と称する宮崎三郎右衛門の娘を娶(めと)り、久保町(和歌山市)に居を構えた。

 2人の間に誕生したのが、梅渓と立卓という2人の男子である。そして、真栄は卜筮(ぼくぜい、占い)により生活を支え、合わせて儒学を講じて糊口を凌いでいた。このとき、すでに真栄は多くの弟子を抱えていたようである。

 元和5(1619)年、徳川頼宣が紀州藩主として入部すると、真栄は儒学者として召抱えられることになった。南麻主計尉なる人物の推薦があったという。真栄は毎晩、頼宣に講義を実施し、元和8年に切米30石を与えられた。

 寛永3(1626)年、朝鮮の物産が必要になったため、真栄は御金奉行である羽賀三郎兵衛、堀部佐右衛門らとともに対馬に赴いた。そこで、朝鮮人と交渉し、無事に役目を終えたのである。その功績により、真栄は被服と白銀300枚を与えられたという。真栄が亡くなったのは、寛永10(1633)年のことである。

 真栄の子息の梅渓は、父以上に知られる存在であった。梅渓は、真栄の嫡男として元和9(1623)年に誕生した。幼い頃から詩文に秀でており、豊かな才能を持っていたようである。父が亡くなった翌年の寛永11(1634)年に家督を相続し、儒者として切米30石を与えられた。

 のちに頼宣の儒者、永田善斎のもとで学び、京都に留学する機会を得た。その間に切米は、80石にまで加増された。梅渓は、藩主徳川頼宣の子である光貞にも学問を教授した。また、朝鮮通信使が来航したときには、通訳を務めるなどし、大いに貢献したことが知られている。

 万治3(1660)年以降、梅渓は農民に対する教育も行い、また家臣に対して儒学を講釈している。さらに、徳川家の「年譜」の編纂で中心的な役割を果たし、30年もの年月を経て『徳川創業記』などを完成し、江戸幕府に献上することができた。梅渓はその功を称えられ、寛文12(1672)年には知行を300石に加増された。

 その後も梅渓は儒学を講じ、また熊野で古跡の調査を行うなどした。書画に優れていたことから、ときに友ヶ島の額や和歌浦の碑文を揮毫(きごう)したこともある。亡くなったのは天和2(1682)年で、66歳であった。このように、親子2代にわたって紀州藩に貢献したことは、特筆に価するであろう。

 また、文禄・慶長の役の際、日本に連行された女性に「おたあ・ジュリア」という女性がいる。ジュリアは、朝鮮出兵のときに最前線で戦った小西行長とともに来日したといわれている。ジュリアは李氏朝鮮の貴族の娘だったとされるが、その根拠は次の史料である(『日本西教史』)。
東京都神津島村にある「おたあ・ジュリア」の石碑(写真は同村提供)
東京都神津島村にある「おたあ・ジュリア」の石碑(写真は同村提供)

 この婦人(=ジュリア)は高麗の貴族で、かつて秀吉が朝鮮に出兵したとき、ドム・オーギュスタン(アウグスティヌス、小西行長)によって捕虜になり、幼くして日本にやって来た。容貌や才気ともに人より優れた婦人になる素質があった。

 『日本西教史』はイエズス会の宣教師、クラッセの手になるもので、1689年に刊行された。ポルトガル人宣教師、フロイスの『日本史』や『イエズス会日本年報』をもとに叙述されているが、史料的な価値は低いと指摘されている。