桧垣伸次(福岡大法学部准教授)

 日本では、2000年に入るまで「ヘイトスピーチ」という言葉はほとんど知られておらず、法的規制について議論されることも少なかった。当時、ヘイトスピーチに該当する問題は起こっていたものの、それらが可視化されることは少なかった。02年に提出された人権擁護法案などで差別的表現の規制が検討されることもあったが、それらの法案が成立することはなかった。

 しばしば、ヘイトスピーチの規制に消極的な米国と、規制に積極的な欧州諸国とが対比される。欧州では、ナチスなどの経験や1960年代半ばに吹き荒れた反ユダヤ的な言論などを受け、何らかの形でヘイトスピーチを規制していった。

 これに対して、米国では、1960年代から70年代にかけて、表現の自由を強力に保護するようになった。現在、ヘイトスピーチを規制する連邦法はなく、州法によってヘイトスピーチの一部を規制するのみである。ただし、米国でヘイトクライムは比較的厳しく規制されている。

 2000年ごろまでの日本は、ヘイトスピーチ法を持たず、またヘイトクライムの規制もしていないことから、米国に近い立場というよりも、むしろ米国よりも規制に消極的だった。特定の人や集団に向けられたヘイトスピーチであれば、名誉毀損(きそん)罪などが適用される余地はあった。しかし、人種や民族一般など不特定多数の者に向けられたヘイトスピーチについては、名誉毀損罪などが成立しないと考えられていて、規制が可能な範囲はごくわずかであった。

 ところが、00年代半ばに入ると、様子は大きく変わった。「在日特権を許さない市民の会」(在特会)らによるデモが大きく報道され、衆目を集めた。

 また、在特会の会員らによる京都朝鮮学校周辺での示威活動に対して、1200万円という比較的高額の損害賠償が認められた事件などをきっかけに、法的規制のあり方が議論されるようになった。2016年には、大阪市が「大阪市ヘイトスピーチへの対処に関する条例」を制定し、また、国会もヘイトスピーチ解消法を制定した。

 法成立を受けて、いくつかの地方公共団体が、市民会館や公園などの「公の施設」の利用に関するガイドラインを作成して、いわゆるヘイトデモのための利用を制限しようとする試みがみられる。
JR川崎駅前で街宣活動と対立した「反ヘイト」を掲げる集団=2018年8月
JR川崎駅前で街宣活動と対立した「反ヘイト」を掲げる集団=2018年8月
 このように、日本でも、法律や条例などによりヘイトスピーチに対処するようになった。しかしながら、のちに見るように、ヘイトスピーチ解消法ではヘイトスピーチ、すなわち「不当な差別的言動」は「許されない」と宣言しながらも、罰則を設けていない。

 同法は、前文で「更なる人権教育と人権啓発などを通じて、国民に周知を図り、その理解と協力を得つつ、不当な差別的言動の解消に向けた取組を推進」することが目的であるとしている。このように、日本は非規制的な施策を活用することにより、ヘイトスピーチに対応することを選んだ。