結局のところ、刑法も人権法もかなり抑制的に解釈、執行されていることがわかる。また、カナダでは欧州諸国にみられる歴史的事実否定の罪(表4-B)は設けられていないので、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の否定は穏健な言葉を用いる限り、刑法により規制されない。

 イギリスの規制についても若干触れておこう。イギリスはカナダと同様に、不特定型のヘイトスピーチを1986年公共秩序法などにより規制している。

 イギリスに特徴的なのは、(法律の名称から明らかなように)秩序の維持を主たる目的とする規制をしてきたことである。表2-Dにいう法益について、カナダとは大きく異なるスタンスをとるのである。

 そのため、リアル・スペースでのデモや集会など表1-Bにいう面前型のヘイトスピーチが主な規制の対象となり、マスメディアやインターネット上のヘイトスピーチが規制されることは少ない。また、カナダのようにマイノリティー保護を前面に出していないので、多数派のイギリス人に対する憎悪の扇動が取り締まりの対象になったことがある。

 イギリスでも、カナダとよく似たかたちで表現の自由への配慮がなされている。まず、1986年公共秩序法によると、原則として法務総裁の同意がないと起訴ができない。この同意を得るのはかなり難しく、起訴されるのはまれである。また、公共秩序法の対象になるヘイトスピーチは、(少なくとも主要な規定については)ある程度過激なものに限定する解釈がなされている。

 以上において、各国の規制の概要を見てきた。日本は刑法・民法等で表1-Aのうち特定型の規制は行っているが、不特定型を罰則付きで規制していない。この点で表現の自由を重視するアメリカに近い立場をとっているといえる。

 表現の自由が民主制を支える権利であり、法的規制に対して脆弱(ぜいじゃく)であることなどを考えると、こうした立場にも十分な理由があるだろう。他方で日本とアメリカはいろいろな点で違いがあることを認識しなければならない。

 例えば、上記のように、アメリカでは多くの主要なマイノリティー系団体が表現の自由保護を選択し、ヘイトスピーチの規制に反対してきたが、日本では現在多くのマイノリティー系団体が規制を支持している。また、アメリカはヘイトクライムやハラスメントを厳しく規制しているが、日本にはヘイトクライム法は全く整備されておらず、アメリカにみられるヘイトクライムの統計をとるための法律も設けられていない。

 ハラスメントの規制はなされているが、アメリカほど厳しく規制されていない。民間レベルのヘイトスピーチ対策もまだ始まったばかりで、アメリカよりもはるかに手薄である。こうした点を踏まえると、不特定型のヘイトスピーチを規制しないという部分だけアメリカのやり方に倣うのは適切ではないだろう。

 確かに、近時日本ではヘイトスピーチに対する踏み込んだ対策が行われている。ヘイトスピーチ解消法は純粋な「理念法」ではなく、あらゆる法令の解釈指針となるものと理解されており、実際に裁判所は民法の解釈指針として用いている。
川崎市で開かれたヘイトスピーチの規制を含む人権条例制定について考えるシンポジウム=2018年9月
川崎市で開かれたヘイトスピーチの規制を含む人権条例制定について考えるシンポジウム=2018年9月
 それによって、在日朝鮮人が集住する地区で予告されたヘイトデモを差し止める決定が下されたこともあった。これは表1-Aでいう特定型と不特定型の間のグレーゾーンのヘイトスピーチが問題となったものであり、アメリカでは類似の事例で差し止めが認められなかった。