橋場日月(歴史研究家、歴史作家)

 天正6(1578)年5月13日までの豪雨は近畿に甚大な被害をもたらした。京では16日になっても雨がやまず、雨乞いならぬ雨止めの祈祷(きとう)が行われている。

 播磨(現在の兵庫県南西部)出陣準備のため京に滞在していた信長も、親征をあきらめなければならなくなっただけでなく、その後も降り続く雨で足止めされて身動きできなかった。

 播磨への道だけでなく、安土でも洪水が発生したうえ(『増補筒井家記』)京から安土への道も川の増水や氾濫で寸断されてしまったのだ。こうなると、「水の神」龍・大蛇のパワーを看板にする信長としてもどうしようもない。

 ようやく豪雨が治まると27日未明、待ちかねたように安土へ戻り、本拠の被災状況を検分してまわった。これについては後で検討してみよう。

 さて、その後信長は半月ほど安土の災害復興などの処理を指示していたのだろう。取りあえず、それが一段落した6月10日、再び京へ向かうと、14日にあるイベントに参加した。

「祇園会(ぎおんえ)、右府より早天に御見物」

 公家の吉田兼見(かねみ)は日記にこう書いている。祇園会というのは祇園祭のことだが、信長は朝早くからこの祭礼の見物に出たのだ。
※写真はイメージです(ゲッティイメージズ)
※写真はイメージです(ゲッティイメージズ)
 『信長公記』はさらに詳しい。

「祇園会。信長御見物。御馬廻(おうままわり)・御小姓衆いずれも弓・やり・なぎなた・持ち道具無用のよし御諚(ごじょう)にて、持たれ候わず」

 見物とはいっても、信長は供の家来たちに武器を持たせず、丸腰で参加させたのだ。今も祇園祭の人出と混雑は半端ではないが、当時も時には雑踏の中でケンカが起きることがあった(『実隆公記』)。