彼の家来で石垣工事の名人として知られた森本儀太夫は、日比谷入江を埋め立てたあとの軟弱な地盤に石垣を積み上げるという課題を与えられ、茅(かや)を一面に敷き詰めた上で何日も子供に遊ばせたり、大人に相撲をとらせた。おかげで加藤家の工事現場は進行が大幅に遅くなったが、他の大名が分担した箇所の石垣が大雨で崩れてしまったのに対し、儀太夫が指揮を執った加藤家担当の石垣はビクともしなかったという(『明良洪範』ほか)。

 このエピソードを一見すると、相撲は単なる地固め・地盤強化の目的で行われているようで、もちろんそういう実用的な効果を期待されていたことは間違いないが、これは少し慎重に考えなければならない。

 相撲は古く神事だった。朝廷では毎年盛夏の7月に相撲節会(すまいのせちえ)が催されたが、これは野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の相撲に端を発するもので、神事としての側面を持っていた。現代の大相撲における横綱(原型は注連縄)や土俵の四隅に下げられる青・赤・白・黒の房(青竜・朱雀・白虎・玄武の四方位神)はその名残だ。

 そして信長の当時、相撲が今より強く神事としての性格を帯びていたことは言うまでもない。神社の祭礼では奉納の相撲が行われていた。

 四股(しこ)は大地を踏み鳴らすことによって地固めを象徴し、地面の悪霊を追い払う。つまり「地鎮」だ。

 地鎮によって、土地は安定し、田畑は豊かな実りを生む。森本儀太夫も実用だけではなく、相撲の神的パワーを意識する部分もあったのではないか。

 この推論は、どうやら信長にも適用できそうだ。洪水が安土でも発生していたことは既に述べたが、安土山下町が琵琶湖の増水に襲われただけでなく、大雨が安土城そのものにも損害をもたらした可能性がある。「アツチ之城天主タヲレ畢(安土の城、天主倒れおわんぬ)」という記録が残されているのだ(『松雲公採集遺編類纂』所収「東大寺大仏殿尺寸方并牒状奥ニ私之日記在之」、和田裕弘「安土城“初代”天主は倒壊していた!」『歴史読本』2007.11)。

 とはいえ、本当に安土城天主が倒壊したとすれば、その直後に1500人規模の相撲大会など開催することなど不可能だ。廃材の搬出や、天主台の地盤強化、天主再建工事に伴う人と資材の搬入で山上山下は大混雑し、とてもイベントスペースなど確保できない。

 倒壊とリアルタイムで日記に書いたのが奈良の人間というのも、実際には伝聞にすぎなかったのではないかという疑いを捨てきれない。この手のうわさは、悪い方にどんどん大きく広がって伝わるものだ。
織田信長が居城の安土城を建てたとされる安土山一帯=2019年1月、近江八幡市安土町下豊浦
織田信長が居城の安土城を建てたとされる安土山一帯=2019年1月、近江八幡市安土町下豊浦
 ただ、伝聞だったとしてもそこにはある程度元になる出来事があったはずで、安土城の一部が大雨によって損壊した可能性は高い。なにしろこの4年後になっても、安土山内の摠見寺(そうけんじ)では正月おびただしい数の登城者の重みで石垣が崩れ、多数の死傷者を出しているぐらいだ。

 大雨によって安土城の地盤の不安定さを認識した信長が、相撲によって地を鎮め、地固めをしようと考えたとすれば、最大規模の相撲大会をこのタイミングで実施したことの説明がつく。