2019年10月03日 11:50 公開

ベッキー・グレイ、BBCスポーツ(横浜)

横浜は活気あふれる街だが、その喧騒(けんそう)を離れた路地に入ると、小さな白い記念碑がひっそりと立っている。あまりに目立たない場所で、記念碑建立のきっかけになった人でさえ、どこにあるのか、場所を尋ねなくてはたどりつかなかった。

歴史家のマイク・ガルブレイスさん(72)は過去10年にわたり、日本のラグビーの歴史をひも解く研究を行ってきた。

日本で開催中のラグビー・ワールドカップ(W杯)で、決勝戦は横浜国際総合競技場で予定されている。それだけに、この記念碑はこじんまりしているものの、ラグビー・ボールが上に載っているので、多少のファンは集めるかもしれない。

記念碑には、驚くような話の発端が刻まれている。1人の武士、武器を持って行われたクリケットの試合、そして日本ラグビーの始まりをめぐる長年の論争について。歴史は時に、フィクションよりも奇なりだ。

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ガルブレイスさんに会えば、この研究にどれほど愛情をかけてきたかがすぐ分かる。私たちは、ごった返す渋谷駅のホームで待ち合わせた。渋谷と言えば、人であふれるスクランブル交差点で有名な場所だ。ガルブレイスさんはここから、私を横浜のスポーツクラブへ連れて行ってくれるという。

このW杯の開始前から公式に広められた、日本ラグビーのそもそも話がある。ガルブレイスさんは、これに激しく反発していた。横浜へ向かう電車に乗るや否や、ガルブレイスさんは自説を熱弁し始めた。熱く語られる内容に、ついていくだけでも大変だ。電車を乗り過ごすところだった。

それでもようやく目的地に着く。最近の台風で被害を受けた、白くて低い直方体のビルに、横浜カントリー&アスレティッククラブがある。そこでガルブレイスさんはまた一から話を聞かせてくれた。

ガルブレイスさんは10年前、イギリスのラグビーチームのため、日本ツアーの企画を手伝った。史学専攻だったため、日本のラグビーの起源についてツアーのプログラム用に記事を書くことになった。

それまでは、日本にラグビーが伝えられたのは1899年、エドワード・ブラムウェル・クラークと田中銀之助という英ケンブリッジ大学の卒業生によるものだというのが通説だった。

しかしガルブレイスさんは、ラグビーがこれよりもっと早くから日本でプレーされてきた証拠を見つけたのだ。

1866年1月26日に書かれた文献には、当時「フットボール」と呼ばれていたラグビーのチームが横浜港で設立されたと書かれていた。

これはイングランドにラグビー・フットボール協会ができる5年前、そしてウェールズに正式なクラブチームが発足するよりも前の出来事ということになる。

歴史家にとって、新史料の発見こそが究極のゴールだ。自分の発見に興奮したガルブレイスさんは、この「横浜フットボールクラブ(YFBC)」にまつわる発見を、日本ラグビーフットボール協会(JRFU)に持ち込んだ。

しかし、「彼らは興味を示さず、日本のラグビーは1899年に始まったと強調した」という。

そこでガルブレイスさんは、JRFUの考えを変えるために動き始めた。

ガルブレイスさんは、この日本発のラグビーチームの創設にまつわる証拠を集め続けた。その中に、くだんの侍が登場するのだ。

1862年のことだ。とある大名が横浜の近くを馬で通りかかったところ、先払いをしていた武士が、チャールズ・レノックス・リチャードソンというイギリスの商人と鉢合わせた。

「大名が道を通る時、地元の住民は平伏しなくてはならない。それが決まりだった」。ガルブレイスさんはこう説明してくれた。

「この時に何があったかについては議論があるが、簡単に言えばリチャードソンは大名を前にして馬から下りなかったため、その侍に斬り殺されてしまった」

いわゆる生麦事件である。日本はこの時、200年以上にわたって鎖国しており、外国人の入国や日本人の海外渡航を禁じていた。

1850年代にアメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が浦賀に来航し、日米和親条約を結んで鎖国をやめさせると、横浜は外国人に向けて開かれ、護衛のために少人数の軍隊も送られていた。

生麦事件の時にはすでに、横浜にも軍艦が停泊していたが、事件後には日本に住み始めたイギリス人のために、より多くの軍人が派遣されることになった。

ガルブレイスさんによると、生麦事件に始まった外国人排斥の動きは加速し、1863年には江戸幕府が外国人に日本から退去するよう求めるまでに至った。

このことが、武装したクリケット試合の話につながってくる。

YFBCの発見後、ガルブレイスさんは日本に駐留していたイギリス海軍にまつわる別のパズルのピースを見つけていた。その文献には、1863年に日本に定住した外国人とイギリス海軍が行ったクリケットの試合のことが書かれていた。

「このクリケットの試合で奇妙なのは、選手たちが(日本人から)攻撃されることを恐れて武器を持って試合を行ったことだ」と、ガルブレイスさんは話す。

「恐らくこの試合は、外国人の退去期限の翌日に行われたのだろう」

「ウィケットキーパー(捕手)はピストルを持っていた。それをウィケットの後ろに置いて、アウトを6回取ったと書かれている」

そしてこの文献には、「集まった半数はフットボールをした」と書かれていた。ギャルブレイスさんは、ここに書かれている「フットボール」は、後にラグビーになる競技の原型だったとみている。

つまり、日本初のラグビーチーム創設は1866年かもしれないが、ラグビーそのものは1863年からプレーされていたことになる。しかしこの2つの証拠をもっても、JRFUを説得することはできなかった。ガルブレイスさんはさらに調査を続けた。

すると、1874年発行の英語雑誌で、イングランドとスコットランドの移民が横浜で「フットボール」をしている様子の挿絵を発見した。これは両国のナショナルチームが初めて国際試合を行ってから、わずか3年後のことだ。

当時「フットボール」という言葉はサッカーにもラグビーにも使われていたため、どちらの試合を指しているのかと疑問に思う人もいるかもしれない。

しかし、「ジャパン・ウィークリー・メイル」が1873年に掲載した記事には、「ボールをキャッチし、敵方へ威勢よく走り、素晴らしいドロップキックでゴールを決めた」という説明が書かれていた。

これに疑いの余地はないだろう。

これこそ、1899年より以前に日本でラグビーが行われていたという確定的な証拠ではないか? W杯の助けもあり、誰もが納得する可能性は十分にある。

ガルブレイスさんは1970年代から80年代にかけて、日本と韓国の通信産業の発展について記事を書いていた。現在は、日本人向けにビジネス英語の勉強を助けるソフトウエアを開発している。

しかし、本人はスポーツ史の研究に専念したいと話す。その情熱を原動力に、2017年には「とても大変な思い」をしながら、スポーツ史・文化で修士号を取得している。

ラグビーW杯日本大会が始まり、日本ラグビーの発端についてガルブレイスさんの発見は驚くほど日の目を見るようになった。イギリスから東京に着いた9月20日、ガルブレイスさんは初戦観戦の前に横浜へ直行し、記念碑の除幕式に参加した。

記念碑にはこう書かれている。

「日本で最初のフットボール(ラグビー)発祥地、横浜」

「1866年1月26日に、この近郊で横浜フットボールクラブが発足した」

記念碑をお披露目したのは他でもない、JRFUの森重隆会長だった。もしかしたら、ガルブレイスさんの主張がついに受け入れられたしるしかもしれない。

除幕とともに、ガルブレイスさんが書いた日本ラグビー史の記事は横浜市の学校に配られたほか、パンフレット10万部が市内の店舗に置かれることになった。

これでついに、ガルブレイスさんはホッと一息つけるのか。

横浜カントリー&アスレティッククラブからの坂道を下りながら、ガルブレイスさんはある日本のことわざを教えてくれた。

「石の上にも三年」。何事にも我慢が大事だという教えだ。

まさに、ガルブレイスさんそのものだ。記念碑がお披露目されたその日、ガルブレイスさんは「石の上に10年座った。やっと降りられる」と、ついに言えたのだ。

(英語記事 Uncovering Japan's mysterious rugby past