石平(評論家)

 この10月1日、中華人民共和国は建国70周年を迎えた。今や世界第二の経済大国であり、軍事大国でもあるこの巨大国家は今後、どのような方向へ向かうのだろうか。

 これを考えるためには、中華人民共和国の生い立ちと歴史を一度振り返ってみる必要があろう。

 今から70年前の中国の建国はそもそも、毛沢東(もうたくとう)共産党が中華民国という合法政府に対して軍事反乱を起こして内戦に勝ち抜いたことの結果である。だから建国当時からこの国は軍事力を基盤にした共産党独裁の軍事政権であり、今でもこの体質は全く変わっていない。近代政治文明の視点からすれば、中国はまさに異質な国であり、「民主と自由」の普遍的価値観とは正反対の政治理念の持ち主である。

 建国してから1976年までの毛沢東時代、中国は共産党の一党独裁によって支配されていたのと同時に、希代の暴君である毛沢東の個人独裁の支配下にもあった。

 その時代、国民全員は人権と自由のすべてを奪われて完璧な密告制度によって監視されていて常に政治的恐怖におびえていた。その一方、国民の経済生活はいわば社会主義計画経済によって完全に統制されていた。民間企業が消滅させられ競争の論理も放棄された中では経済が活力を失って成長が止まり、中国はアジアの中でも最貧困国家の一つに成り下がっていた。

 その一方、毛沢東の共産党政権は対外的には覇権主義的拡張戦略を積極的に進めた。建国の直後にチベット人やウイグル人の住む地域に人民解放軍を派遣してそれを占領して中国の一部にした。朝鮮半島にも出兵して連合国軍と戦い、ベトナム戦争にも参戦してベトナムの共産党勢力を支援した。そして国境を挟んでインドや旧ソ連とも局部的な戦争をした。

 まさしく軍事政権よろしく、毛沢東の中国は軍事力を使って周辺民族に対する侵略を繰り返し、周辺国との無謀な戦争にも明け暮れていた。しかし結果的には中国は国際社会からますます孤立してしまい、一時は米ソ両大国を敵に回して世界と断絶するような鎖国政策をとった。

 やがて毛沢東晩年の文革期になると、嵐のような紅衛兵運動の中で1億人単位の人々が何らかのかたちで政治的迫害を受け、知識人を中心にして数千万人の人々が殺されたり自殺に追い込まれたりした。中国全体はまさに阿鼻(あび)叫喚の生き地獄となった。おそらく中国四千年の歴史の中では、文革の十年こそは最も悲惨なる暗黒期だったのであろう。

 そして1976年に毛沢東が死去すると、中国の現代史に大きな転機が訪れた。毛沢東死後の一連の政治闘争を経て党と国家の最高権力を手に入れたのは実務派幹部の鄧小平(とうしょうへい)であるが、彼は政治の実権を握ると、毛沢東の政治路線とは正反対の改革・開放路線を進め始めた。
中国建国70年を迎え、北京の天安門の楼上に並ぶ習近平国家主席ら要人(上)と毛沢東の肖像画=2019年10月1日(共同)
中国建国70年を迎え、北京の天安門の楼上に並ぶ習近平国家主席ら要人(上)と毛沢東の肖像画=2019年10月1日(共同)
 「改革」とは要するに、硬直した社会主義計画経済に競争の論理を導入すると同時に民間企業の復活を認めて経済に活力を与えることだ。一方の「開放」とは要するに、毛沢東時代の鎖国政策に終止符を打ち、中国の「国門」を外部世界、特に西側先進国にオープンしていくことによって、諸先進国から経済成長のために必要な資金と技術を導入することである。

 そのためには、鄧小平は毛沢東時代の拡張戦略にも一定の軌道修正を加えた。いわば「韜光養晦」(とうこうようかい)戦略の下で、覇権主義的野望を一時的に覆い隠してソフトな外交路線を進めることで西側諸国の警戒心を和らげ、外国資本と技術が中国に入りやすくなるための環境整備を行った。