1762年のマニラ陥落とは、その武装中立が不可能になったことを意味する。ポルトガルを追い出してから100年以上、江戸幕府は泰平を貪(むさぼ)っていた。軍事力は放棄されたに等しい。それに対してヨーロッパは絶え間なく戦乱を続け、今やアジアにまで進出している。仮にヨーロッパ人が日本に来なかったとしても、タマタマに過ぎない。

 現に1808年、フェートン号事件が発生した。ナポレオン戦争の最中、イギリス船がオランダ船を追い回し、長崎を荒らしまわった。これに対し江戸幕府は、水と薪を与えてお引き取り願うばかりだった。

 時の将軍は徳川家斉。50年にも及ぶ長期政権を築く。その治世は、1787~1841年に及ぶ。その間、経済は発展した。しかし、国防努力は何一つなされなかった。「祖法」である「鎖国」にしがみつき、何もしなかったのだ。もはや「鎖国」など不可能であるのはフェートン号事件の一事で明らかだが、幕府の指導者たちは改革を恐れた。平和な時代に国防努力など、敵を作るに決まっている。ならば、国際情勢の現実から目をそらし、安逸を貪る方が安泰だ。経済は絶好調だし、外国から直接侵略されるわけでもない。

 1841年、家斉死去の年に改革が始まった。水野忠邦の天保の改革である。隣国の清は、アヘン戦争によりイギリスになぶり者にされていた。一応、江戸幕府の指導者もバカではない。清の次は日本の番だと理解していた。改革、すなわち富国強兵の必要性を自覚していた。そして家斉の死を待った。代替わりの際に権力を握り、その上でできることからやろうとしたのだ。

 結果、見事に失敗した。しょせん、水野は官僚である。出自は大名だが、心性は木っ端役人である。既に権力を握っている連中に気を遣い、できること“だけ”やろうとする。日本人基準の「できること」など侵略者には関係ないことを、こういった連中には理解できないのだ。日本を侵略から防ぐのに必要なことをやらねば、殺されるか奴隷にされるだけだ。富国強兵、強い政府を作って税金を集め国の軍隊を作る。ところが、それをやろうとしたら、既得権益層の反発を招く。大名たちは、勝手に年貢をとって自分の軍隊を持ちたい。それを取り上げられるのは真っ平ごめんだ。「それでは日本が滅びる」などという説得だけで、この絶大な既得権益を取り上げられるわけがない。幕府は、そうした大名の上に君臨している。さらに既得権の塊(かたまり)だ。

 1853年、ペリーが来るまで何の改革も進まなかった。それどころか、ペリーが来てからも改革は進まなかった。天保の改革、嘉永の改革、安政の改革、文久の改革、慶応の改革…。かけ声はかかるが、本質的には何一つ進まない。延々と議論がされるのが、「参勤交代を緩和すべきだ」「神戸を外国に開国すべきかどうか」だ。いずれも、幕府が滅び、明治政府が外国との交際を始めてみれば、忘れ去られるような話である。ところが、幕末の政治家たちは、「日本を守る」という本質と全く関係のない、これら些末な争点で大真面目に政局を動かしていた。ただ動かしていただけだったが。

 ここまで江戸幕府が愚鈍でも、なぜ日本は救われたか。最終的には、正論を押し通す人たちがいたからである。

 元治元年12月15日(1865年1月)、長州の功山寺で高杉晋作は決起した。たった1人で、3千人の敵に立ち向かう覚悟だった。功山寺決起に、後の元勲たちが駆けつけた。クーデターは成功し、大村益次郎の天才的用兵もあって、長州は幕府との四境戦争(第二次長州征討)を撃退する。

 これを見た薩摩の大久保利通は薩長同盟に踏み切り、討幕をやり遂げる。そして、大久保の手によって、富国強兵は成し遂げられた。
大久保利通
大久保利通
 徳川幕閣や旗本八万旗など、幕末維新の危機に何の役にも立たなかった。数百年前の栄光に溺れ、単なる特権階級と化していたからだ。真のエリートではない。真のエリートとは、「己の命よりも責任が重い」と自覚している者である。高杉や大村、そして大久保こそが、真の国を救った真のエリートだった。彼らの受けた教育に注目すべきだろう。