高杉は、吉田松陰の松下村塾の筆頭である。高杉は藩校の「偏差値エリートコース」を捨て、松陰の門を叩いた。松陰の教えは「自分が日本を救うつもりで勉強しろ!」だった。記録に残された松陰を見ると、自分が征夷大将軍になったつもりで勉強し、教え子にも教育している。農民に等しい下級武士の伊藤博文や、足軽の子供の山県有朋に対し、「自分がトップに立ったつもりで勉強しろ!」と説いているのである。そして、自ら実践する。

 大村益次郎は、緒方洪庵の適塾の出身である。適塾は医者を養成する私塾だが、原書で西洋の知識を追い求める若者が集まっていた。医学に限らず、あらゆる知識を吸い込み、議論した。住み込みの全寮制。実験と観察、一次資料の考察。ゼミと討論による完全実力制が、適塾の特徴だった。イギリスのイートン校からオックスブリッジのエリート教育と同じことをしていた。

 大久保利通は若い頃は郷中教育を受けた。年長者が年少者を指導し、軍事規律のように結束する。大久保は青年期には西郷隆盛らと“自主ゼミ”を開き、いつの日か日本の役に立てる自分になるべく、学びを続けていた。

 幕末の最終局面で、高杉が時代を動かし、大久保が正論を通した。それができた土壌は、当時の日本人の少なからずの人たちが「何が正解かを分かっていた」ことがある。

 松下村塾や適塾は極端な成功例だが、江戸時代を通じて学問熱は盛んだ。京都には一定数の知識人が常に集まっていた。手紙を通じて、知識人たちは情報をやり取りしていた。負けた側の幕府とて、全員が愚かだったわけではない。幕府や水戸藩は限られた情報(information)から、必死に知見(intelligence)を導き出していた。自分の頭でモノを考えていたのだ。

 何より、江戸時代の識字率は、ほぼ100%である。外国は、平民が白痴でも、一部のエリートが国を支えるのが普通だが、日本は国民全体の平均値が国を支えている。

 さて、明治になってどう変わったか。

 初等教育(今の小中学校)は整備された。それまで寺子屋で教えていたことを、国が責任を持って文盲を作らない制度にした。義務教育である。大日本帝国の義務教育を受けた日本人は、よほどの例外を除き、読み・書き・計算・愛国心を身に付けていた。
※ゲッティイメージズ
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 一方、高等教育は大失敗した。

 勘違いしてはならないのは、日露戦争までの栄光は、江戸の教育を受けた人たちが国を指導した賜物である。その人たちですら、日露戦争の勝利で「平和ボケ」した。日本人の頭が悪くなったのは、明治40(1907)年である。日露戦争勝利の2年後である。なぜ、この年か。