日露戦争の講和であるポーツマス条約が結ばれた時点で、日本はロシアの復讐を恐れていた。こちらは2年の大戦争で弾薬が切れ、国力のすべてを使い果たした。裏切って攻めてきたら、幕末維新以来の努力は水泡に帰す。外交でなんとか時間を稼いだ。

 そして、1907年。立て続けに協商が結ばれた。日仏協商、日露協商、英露協商である。日英と露仏は同盟国であり、英仏は既に協商を結んでいる。すなわち、この4カ国が事実上の同盟国となったのだ。仮想敵はドイツ。第一次大戦まで、三国協商はドイツとにらみ合いを続ける。日本だけが安全地帯となった。

 ここに緊張の糸が切れた。筆頭元老の2人、伊藤博文と山県有朋が本気の大喧嘩を始めた。伊藤は、デモクラシーの必要性を説く。日清日露戦争に勝つまでは、元老とその傘下の官僚・軍人による指導が必要であった。だが、その課題を達成した以上、民権に移行していくべきであると考え、シビリアンコントロールに着手していく。

 それに対して山県は、現実の政党政治家の見識の欠落、特に軍事に対する無知を理由に、むしろ軍や官僚機構の特権を守る方向に走る。これが後の悪名高い、統帥権の独立となる。大正時代は、民権を求める政治家と、特権を守ろうとする官僚の抗争で推移した。それで許された。既に、大日本帝国は世界の誰も滅ぼせない強大な国となっていたのだから。官僚が特権を貪ろうが、国民は民権を謳歌する時代だった。

 文官は東京帝国大学法学部出身者が大半であり、陸海軍の将官は陸軍大学校・海軍大学校を卒業した学歴秀才が占めることとなる。学歴秀才とは、採点者が求める正解を答える能力に秀でた者のことである。「一高~東大」「三高~京大」のように、ナンバーズスクールから帝国大学に進む者が自動的にエリートと目されるようになり、同じように陸軍士官学校や海軍兵学校も閉鎖的な世界となった。

 自分の頭で考える江戸のインテリジェンスは失われていたが、それでも高校教育における教養と、大学の独自性は存在した。ナンバーズスクールは全寮制であり、共同生活を送るうえで自分の専門外の教養に触れることができた。憲法専攻の学生が文学や工学に最低限の知識があるのは珍しいことではないし、逆もまた然り。

 大学も、特色があった。早稲田大は東京専門学校で出発し、政治家とジャーナリストを養成する学校。慶応義塾は、財界人を送り出した。中央大は英吉利法律学校、法政大は東京仏学校が前身である。一橋大や神戸大は、商学部が看板だった。国公立(官学と言われた)でも、北海道大の前身はクラーク博士で有名な札幌農学校であり、農学部が看板大学である。いずれも別に、最初から大学ではない。ただ、やがて大正中期までに、すべて「大学」の看板を掲げ、特色をなくしていく。
羊ヶ丘展望台にあるクラーク像=札幌市豊平区(松永渉平撮影)
羊ヶ丘展望台にあるクラーク像=札幌市豊平区(松永渉平撮影)

 昭和初期の愚かな国策については、贅言(ぜいげん)を要すまい。鼻につくエリート意識の高級官僚や陸海軍の軍人たちは、大日本帝国を滅ぼした。ソ連の片手間の中国の片手間のイギリスの片手間にアメリカへ喧嘩を売るような真似をしない限り、滅びないはずの国だったのに。遥かに困難な状況で、明治維新や日露戦争はやり遂げられた。江戸幕府の腐敗した官僚は駆逐された。ところが昭和期になると、政府と軍の無能な官僚主義によって、国を滅ぼしてしまった。

 では、いつの間に無能な官僚が跋扈(ばっこ)したのか。時計の針を、1871(明治4)年に巻き戻す。この年、岩倉具視を団長とする、岩倉遣欧使節団が派遣された。使節は2年に渡り欧米を遊覧し、多額の国費を浪費しながら、何の成果も出せなかった。一方、留守政府は着実に改革を進めて結果を出している。帰国後、完全に主導権を留守政府に奪われた大久保利通は、留守政府の首班である西郷隆盛と抗争し、権力を奪還する。