大久保ら留守政府は、当然のごとく強い風当たりを跳ね返さねばならない。そこに、留学帰りの面々が取り入り、派閥を形成する。自然と、「岩倉使節団の成果は有為の人材が欧米の学問を修めて帰ってきたことにある」と喧伝されるようになる。

 最初、東大法学部卒業生は、無試験で高級官僚に任用された。驚くべき特権である。また、大学に残り助教授に昇進した者は、国費で欧米に留学できた。

 では、彼らに江戸の若者たちのような知性があったであろうか。たかが1年や2年で帰ってきた岩倉使節団の連中に何ができるか。特に批判すべきは、津田梅子である。5歳でアメリカに留学し、20歳で帰国したときには日本語を忘れていた。何のための留学か。岩倉使節団には5人の女子がいた。年長の二人は早々にホームシックになって帰国。残り3人も、日本の男に飽き足らなくなっていた。ちなみに、津田梅子は生涯独身である。

 明治以後、「ではのかみ」が幅を利かせるようになった。学会では、「ドイツでは」「イギリスでは」と、外国の文献の紹介が学問として扱われた。医学のような技術主体の学問は、まだよい。当時は、最新の技術の輸入が、喫緊の課題であった。極端に言えば、何も考えずに、技術だけ覚えればよい。

 しかし、歴史や政治のような、極めて人文科学的要素が強い学問でも、「ではのかみ」が幅を利かせる。明治に輸入された実証主義歴史学はドイツから輸入された。明治時代に日本の大学の多くは、ドイツを模範とした。ところが、少しでもドイツの大学を知る者は、「どこをどう真似したら、これがドイツ風なのだ?」と仰天する。少なくとも、「誰も気づかなかった一次史料を探してきて翻刻し、読書感想文を並べると論文が出来上がる」など、ドイツで実証主義と呼ぶ者はいない。

 地域研究にしても、そうだ。たとえば、タイの研究をタイ語で始めたのは戦後だ。それまでつまり戦前世代は、英語など洋書のタイ研究をありがたがるだけだった。現地語を読まないのが当然視された。舶来崇拝を通り越して、植民地根性である。こうした欧米の学問を翻訳するだけの学問モドキを、「横のものを縦のものにする」と称した。

 政治など、自分が生き残る術である。情報がすべて開示されるなどありえない。現実政治は試験問題とは違うのだ。限られた情報の中で自ら知見を見つけ出さねばならない。

 明治の指導者が国の進路を誤らなかったのは、江戸の教育を受けていたからである。明治以降の教育を受けていた昭和世代は、現実には有害無益だった。自分の頭で考えることを放棄した、末路だ。
 
 その起源を求めるなら、岩倉使節団だろう。明治6年から既に、日本人の頭は悪くなっていたとも言える。さて、この病理。今はどうなっているであろうか。
岩倉具視
岩倉具視
 これだから日本人は…。が、ようやく100年を超えた。だが、2600年の歴史の中で、たかが100年、誤差の範囲である。

 幕末に戻ったつもりで真剣に学ぶべきではないだろうか。