棒地雷の決死隊


井上 土田さんは、見張り兵として米艦隊到来の第一報を通報しました。現在で言う、レーダーの役目で、非常に大事な任務でした。最初にペリリューに米軍が来たときは、どんな様子でしたか。

土田 私たちは20人ばかりが交代で、朝昼晩ずっと、戦闘指揮所の上にのぼって船と空の見張りをしていたわけですが、そのころはサイパン、テニアン、グアムでの戦いにペリリュー島の飛行機は全機応援に行って、1機も帰ってこなかったわけです。それで、「いよいよ最期の時が来たな。死んでもこの島を守らなければいけない」と玉砕も覚悟していました。それはもう、陛下のため、国のためと思って死にものぐるいで戦ったものですから。

井上 9月15日に米軍上陸作戦が始まりましたが、そのころには見張り任務も不要となり、土田さんは山中で配置につきます。ペリリュー島中央の山岳地帯は、現在はジャングルに戻っていますが、当時の写真を見ると、米軍の艦砲射撃で草一本まともに生えていないくらい吹き飛ばされて、禿げ山になってしまいました。土田さんは、米軍の侵攻をどのあたりから見ておられたのですか。

土田 「海軍通信壕」という洞窟におりました。入り口は、体がやっと出入りできるような壕です。

講演する元海軍二等兵曹の土田喜代一さん(左)。
右は聞き手でジャーナリストの井上和彦氏
=3月21日午後、東京都千代田区の靖国神社遊就館
(松本健吾撮影)
 その9月15日の夜、ここから兵が3名、棒地雷をもって出撃しました。中隊長が「今から戦車攻撃に出る。希望者は3名だ」ということで決死隊を募った。すると最初に名乗り出たのが陸軍の伍長ぐらい。2番目は海軍の陸戦隊員。「もう一人誰かいないか」というところで、「死ぬのは覚悟しているけど、米軍は今朝上陸したばかりだし、ちょっと早いな、どうしようかな」と逡巡していた私を尻目に、パッと手を挙げたのが小寺亀三郎という一等兵でした。おそらく実弾を撃ったことがない人間でしたが、パッと手を挙げて「小寺一等兵、参ります。両親から死ぬときは潔く死ねと言われました」と言って、元気よく出て行った。

 棒地雷というのは刀の鞘を大きくしたような形で、陸軍の兵器だから私は見たことがなかったんです。30トンもの重い戦車が使いものにならんような爆破をするらしいですけどね。

井上 米軍戦車の分厚い装甲を撃ち抜くのはなかなか難しい。47ミリ速射砲という大砲が側面から攻撃してようやく穴があく。ところが、この当時の状況になってくると、日本軍の大砲は全て破壊されてしまっている。そんな中で、「棒地雷」といって、棒の先に地雷をつけたものを手に、体ごと突っ込んで戦車に踏ませて爆破する。戦車もキャタピラがなくなると動けなくなります。特に米軍の戦車は、エンジンがディーゼルじゃなくて、ガソリンを使っていたので、爆破するとものすごい勢いで燃えるんです。

土田 小寺一等兵らのその後の行動は分かりません。そのうちに、中隊長から「5人ばかりで水を汲んでこい」と命令された。わが隊に「飯を炊いて、移動しろ」という命令が出ていたんだと思います。

 私も選ばれて水を汲みに行ったら、戦車が2台、もう真っ赤になって燃えてるわけですよ。脚に引っかかったものがある。見てみると敵兵の死体でした。1台の戦車がぶっ飛んだところには、5名ほどの敵兵が死んでいました。まだ腕時計がピピピピッと動いていた。この時計も、銃もかっぱらって帰ったのです。

井上 小寺さんら決死隊3名が爆破したのですね。実はその直前まで、土田さんが小寺さんに、銃の撃ち方を教えていたそうですが。

土田 あの出来事はつい昨日のことのような気がします。70年も経っているのに。「ああー、今でも考えると辛いなあ……」と思って、やっぱり涙が出ます。

井上 この話をされるとき、土田さんはいつも目に涙をためてお話しになるんです。

土田 その後、汲んできた水で飯を炊いて、壕から出撃しました。まさに雨霰のごとく「シャシャシャシャッ、シャシャシャシャッ」と砲弾が飛んできて、爆発すると昼間のように明るくなる。パッと散る間際に、約七十名のものがパパパッと進みました。そうしたら、敵は艦砲射撃に切り替えたんです。夜中ですよ。これは撃たれると思って、死に物狂いでペリリュー神社が建っているところまでたどり着きました。

井上 それからの戦闘の様子を私からお話ししたいと思います。実際この地で戦われたアメリカの第一海兵師団の兵士たち何名かにインタビューをしたことがあります。彼らは「日本兵は全員スナイパーのようだった」と言うんですね。狙撃兵のようだと。

 大東亜戦争で日本は筒の長い三八式歩兵銃や九九式小銃で戦ったから負けた、などという戦後の評論家がいますが、それは間違いです。実は、筒が長いと命中精度は上がるんです。弾薬の乏しい日本軍にとっては、一発ずつ精魂込めて撃ち抜くのは重要なことで、しかも連射すると発火点がばれて反撃されますから、一発撃ったらすっと壕の中に引っ込む。そんな戦いにこの日本軍の小銃は最適だったんです。しかも、命中精度はアメリカ軍のものよりも良かったともいわれています。

 私が話を聞いた海兵隊員は「『パーン』という日本軍の銃の音が一発するたびに、米兵が必ず撃たれて死んでいった」と言っていました。米軍にとっては、巧みに配置された500もの複郭陣地から日本兵に狙撃されるという厳しい戦いだった。米軍が「死の谷」と呼んだ場所もあります。そこを通るととにかく撃たれる「キリングゾーン」。そういう場所が幾つも幾つもあったんですね。

 一方で米軍は圧倒的な火力にモノを言わせて攻め、日本軍守備隊はどんどん消耗していく。そんな厳しい戦いの毎日、どう気持ちを奮い立たされていたのでしょうか。

土田 とにかく「自分たちが負けたら、もう日本は後がないんだ」と考えていましたから必死でした。そして戦闘の最中に、陛下からお褒めいただいたということを聞かされたんですね。

井上 ご嘉賞にあずかったと?

土田 そうそう。そして「おい、土田、またもらったぞ」と上官から聞かされた。「またもらったんですか」と言うて、やっぱり元気百倍になりましたね。もう「ああ、これで死んでもいいや」というような気持ちでした。