米軍の食糧を「担ぐ」


井上 食糧はどうされていたんですか。

土田 米軍から調達しました。それぞれ自己調達ですから、部隊の間で争奪戦です。

 「海軍工作科壕」に日本軍の備蓄した缶詰があり、私たちもそこから取ってきていたんですが、あるとき、陸軍通信隊の連中もその缶詰の存在を知ったことが分かった。そこで「早いうちに自分たちで独占しようじゃないか」ということになり、暗闇に乗じて工作科壕の食糧置き場にいくと案の定、陸軍通信隊の五人が来た。彼らは「あら、しまった」というような顔をしていましたが、とにかく奪い合うようにしてどんどん集めたわけですよ。

 それが午前1時ごろでしたかね。彼らも私たちもある程度取ったから、双方満足して雑談していました。そうしたら、仲間の千葉兵長がこっそり「あそこに敵の高射砲の陣地ができてる。見てみろ。きっと食糧があるぞ」と囁いてきたんです。私は慌てて取りに行こうとしましたが千葉兵長に制されました。そして陸軍通信隊の連中にばれないよう、彼らが引き揚げるのを待ちました。午前二時ごろになり、彼らが引き揚げたので行ってみたら、高射砲陣地じゃなくて、なんと缶詰の山だったんです(笑)。

井上 高射砲陣地だと思ったら、缶詰の山。そこでガッポガッポと、「さあ、担げ担げ」と。

土田 格好もお構いなしに1人5、6箱ぐらいずつ、日本軍の缶詰なんかは放ったらかしで担いだ。持ちきれず、改めて取りに来ようと考えて、途中で何箱か隠したんですよ。ところがそれを敵に見つけられた。そうした跡を辿って自分たちの潜んでいた湿地を見つけたんでしょう、突然に大掃討をくらったわけですよ。

井上 米軍による大掃討作戦ですね。日本軍の将兵がまだいることが分かって、米軍が山狩りのように追いつめていくという戦いがあった。

土田 私がそのときにいた壕は、友軍から乾燥肉で買ったんですよ。同じ湿地に唐沢さんと斎藤さんというのが住んでいたんですけど、もう1カ所壕があるというわけですよ。そこを「この缶詰をやるから売ってくれんかね」と頼んで教えてもらった。「しょうがないな」ということで案内してくれたところが、岩の割れ目ですよ(笑)。湿地の水面から高さが70センチぐらいのところで、満ち潮の時には水に浸かるような格好になる。しかし、「ここに潜り込んでいれば敵にはちょっと見つからんな。外におるよりはよっぽどいい」と千葉兵長と森島一等兵と私の3人、頭上に大きな石をかぶせて、枯れ枝をのせて擬装して潜んだんです。そこに、大掃討をくらって、米軍が200人ぐらいやってきた。

 それはそうでしょう。米軍の缶詰のソーセージを食った残骸を、湿地に投げ込む。その横には大便を投げているから、敗残兵がいると感知されるのも当たり前でした。

 で、壕に潜んでいたら、頭上の石に米軍の司令官が腰かけとるわけですよ。《この辺りを探せ》なんて命令していたんでしょう。彼が立ち去ると、違う兵隊が石の上を踏んでいく、その靴底が見えるわけですよ。我々のいる下には缶詰の空き缶があって、石ころがぽろっと落ちてきたら、「タン」と音がして分かってしまう。千葉兵長がそっと移動させた。

 そのときに森島が、私に「敵はもう帰ろうと言っていますよ」と言った。彼は大学出ですから、英語も聞き取ったんでしょうね。そしたら1分もしないうち、彼らは引き揚げていきました。ああ……もう助かった。うれしかったですね。

 この掃討戦では、4人が死にました。

壕での楽しみは将棋


井上 大東亜戦争の終結後も、土田さんたちは1年8カ月も戦い続けられました。

 私はペリリュー島を訪れた際、土田さんたちが潜伏していた壕に入ってみました。出入りするにも、背中が尖ったサンゴで傷つくような狭い入り口を入らないといけない。内部も天井が低いため中腰で移動せねばならず、閉所が弱い方は精神的に参ってしまいそうです。そうした壕がいくつかあって、何人かが分かれてお住まいになっていました。あの狭い壕の中での生活はいかがだったでしょうか。

生き残った日本兵が身を隠した壕=2月11日、パラオ・ペリリュー島(共同)
土田 それはもう、いったい我々はどうなるのだろう、というのが一番の心配でしたがね。生まれてから現在のことを全部話して、話すこともないぐらいに。おんなじことを2回も3回も。だからなかには小説を書く人もいるし、講談する人もおるし、また昔の恋人のことをやりだしたという感じで、もう話すことがなくなってしまうわけです。

 だから、将棋が一番の慰めになりました。勝っても負けてもね。板に彫った将棋でした。私は旋盤工をやっていたので、彫るのも得意中の得意で、7組くらいは作りましたね。森島というのが、「俺は田舎二段だ」と大きく出やがった。なにを言いおるか、と思ったら本物だったんです(笑)。

井上 強かったんですか。

土田 もう本当に、強くて。それに、まるで将棋を知らない人もどんどん強くなってきたんですよ。

井上 当時みな、20代前半の方々でした。娯楽で何とか気を紛らわしつつ、そんななかでも戦い続けなければならない。戦いが終わったのは、どうやって知ったのですか。

土田 木の枝に札が下がっていたんです。『戦争は終わった、お前達の帰りを待っている』と。だが、ばかやろう、まただ、とほっておいた。澄川少将(第四艦隊参謀長で、武装解除の説得にあたった澄川道男少将)が来られたが、最初は分からなくて帰ったようです。

井上 澄川少将は米軍の依頼でペリリュー島に出向き、メガホンで呼びかけたり、木に手紙をつるしたりして帰順の説得に当たられましたね。

土田 きっかけとなったのは、「パパイヤちぎり」です。千葉兵長が木に登ってパパイヤをちぎり、下に待ち受けている塚本という男にポーン、ポーンと放り投げていた。その最中に見つかったんですよ。すぐに塚本が「千葉兵長がつかまった」と知らせに来た。格闘しているところがすぐわかったので、銃を撃つと敵はバッと散ってしまった。

 千葉兵長は蹴られたり踏まれたりしたけれど、無事でした。千葉兵長に聞いてみると「相手が、『俺は通訳だ。日本は負けたんだ。日本兵を戻すために帰って来ているんだ』とか、妙なことをしゃべったような気がする」という。後で分かったことですが実は、その敵は米兵ではなく島民でした。戦争中は東京にいて、府立一中で学んだという柔道二段、剣道初段の若者だったのです。

 この発砲事件を受けて、「まだ日本兵がいる。危ない」ということで、米軍が澄川少将に説得を依頼したわけです。