命懸けで「終戦」を確かめる


井上 壕を出て、置き手紙を残したことについてお話をお願いします。

土田 ある日、壕のなかに何かが投げ込まれた。タバコとともに「日本は負けた」ということが書いてありました。敵の欺瞞戦術かもしれない。対応を協議した結果、食糧は1、2年分あるが、トーチランプにするガソリンがない。ガソリンだけ取りにいこうじゃないか、そうしてから考えようという結論が出た。

 その際、「参謀長が会おうという手紙だから、私に行けというなら命懸けで行ってきますがね」と言ったんですが、真剣だけれども笑い話で言わなければいけないような雰囲気でね。脱走と見なされ死んだ人もおるから。うかつに変なことをすれば私も疑われると思って「言われるならば命懸けで私が行ってみますが」と。私は本気だけど、笑いながらでないと撃たれると思った。

 そして皆がガソリンを取りに行くとき、見張りとして残った私は置き手紙を残して壕を抜け出し、澄川少将に会った。私がすぐには承知しないものだから、アンガウル島まで連れて行かれて、ようやく日本が負けたという状況がはっきりしたのです。

井上 アンガウル島では、すでに日本人とアメリカ人が一緒にリン鉱石の採掘作業をやっていましたからね。

 土田さんは、日本が負けたかどうかを確認するため、書き置きを残して壕を出られた。だが集団生活ですから、脱走兵と見なされ、土田さんを処刑しろということもささやかれていた。そんな危険を承知でもう一度、澄川少将とともに壕に戻り、指揮官に話し、皆さんが帰投された。皆さんに銃を置かせるため、土田さんは、それぞれのご家族のお写真や手紙を日本から取り寄せ、それを持って行かれたということですね。

 こうして最後まで戦って生き残った34人の方々が昭和22年4月22日、帰順されました。この方々で、「三十四(みとし)会」という戦友会を結成されています。

 最後に私のほうから、お話の中にもでてきたペリリュー神社にある石碑を紹介したいと思います。そこには敵将だったアメリカ太平洋艦隊司令長官・C・W・ニミッツ提督から贈られた次のような言葉が日英二カ国語で刻まれています。

 《諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ》

 敵将が日本軍の戦いぶりを讃えている場所は私の知る限り、ペリリュー島だけです。

 改めてうかがいますが、この度の天皇皇后両陛下のペリリュー島への行幸啓についてどんなお気持ちですか?

土田 ほんとうにありがたいことです。あの島で亡くなった戦友たちがどれほど嬉しく思うことでしょう。靖国神社に祀られる一万余の戦友たちは皆喜んでいると思います。皆に陛下と会ってもらいたいですね。

井上 長時間にわたって、ありがとうございました。ペリリュー島の英雄・土田喜代一さんでした(拍手)。

【質疑応答】


 ――私は大学生ですが、後世に何を残したいと思っておられますか。

土田 今の人はなんの原因かわかりませんが自殺者が多いですね。どうしてあんなことをされるか。事情はあったけれども私たちの時代には一人もいなかったですよ、若い人たちの自殺なんかというのは。だから、何を考えておられるかと思って。昔の若者のようにかえってもらいたいですね。

 ――そのためにはなにが必要と思われますか。

土田 昔の人たちの戦闘のことを考えてみて、自分たちはもっと強く生きないといかんなという精神を持ってもらえたらいいんじゃないかと、年寄りながら思ってるんです。

 ――土田さんたちが戦われた戦いを、一部で「狂気の戦場」「無駄死に、飢え死に」などと言われたりするが、そんな状況をどう思われますか。

土田 我々は、その時代は国民のため、陛下のためと思って戦っていたもんですから。みんな、国家のため陛下のために、なんとかして日本がつぶれないようにと、一生懸命に戦ったのが、そういうふうなことはちょっとね…。


元日本兵でペリリュー島の戦いから生還した土田喜代一さん(中央手前)に言葉をかけられる両陛下=4月9日、パラオ・ペリリュー島(松本健吾撮影)
 土田氏は、4月8~9日の天皇皇后両陛下のパラオご訪問にあわせてペリリュー島を訪れ、両陛下が9日に同島の西太平洋戦没者の碑を拝礼して戦没者を追悼されたのに立ち会った。産経新聞の記事でその様子を紹介する。椅子の上で背筋を真っ直ぐに伸ばして天皇陛下からおねぎらいを受けている姿の写真が印象的だった。

《「34人のうち、私が幸運にもここに来ることができた。1万の英霊たちが喜んでいると思いました」。ペリリュー島守備隊で生還した元海軍上等水兵、土田喜代一さん(95)は、西太平洋戦没者の碑で拝礼した天皇陛下からおねぎらいを受けた後、報道陣にそう語った。
 約1万人がほぼ全滅した同守備隊の中で、昭和22年まで抗戦して生還した隊員34人の一人だ。戦友の御霊が陛下と邂逅(かいこう)する場に立ち会いたいと、車いすの老身を押して訪島した。シャツの胸には生還者の会「三十四会(みとしかい)」の刺繍(ししゅう)があった。
 弾薬も食糧も補給がない中、後輩、同僚、上官が目の前で次々と落命。「自分もいつ死んでもおかしくなかった」。守備隊の組織的戦闘は19年11月に終結し、日本は20年8月に終戦を迎えたが、土田さんたちは「徹底抗戦」の命令を守り、険しく狭いサンゴ岩の洞窟に息を潜めて抗戦を続けた。
 今回、島に到着した今月5日。慰霊碑「みたま」の前で、ハーモニカを吹いた。若くして帰れなかった戦友らを思い、南洋での海軍兵らの郷愁を歌った「ラバウル小唄」を選んだ。「1万の英霊たちが喜ぶ姿が、はっきりと見える」。戦友を追悼された両陛下のお姿に、土田さんはつぶやいた。》

 土田 喜代一氏(つちだ・きよかず) 大正9(1920)年1月福岡県生まれ。95歳。昭和18年1月、佐世保第二海兵団に入団。同年4月、博多海軍航空隊(実習部隊)に配属後、横須賀航海学校見張り科に入校。同年10月の鹿屋航空隊への配属を経て、第一航空艦隊第761海軍航空隊(主力機種・一式陸上攻撃隊)に配属。19年2月、テニアン島へ向かう。同年6月、パラオのペリリュー島転進に伴い第一航空艦隊西カロリン方面航空隊に移り、見張り兵として任務に就く。米軍が上陸した同年9月からは陸戦隊員として戦った。同年11月24日のペリリュー島守備隊玉砕後も、生き残った日本兵百名余は日本軍の反撃を信じつつ抗戦を続けた。終戦を信じず生き残った34名の日本軍将兵は、22年4月24日、米軍の武装解除の求めに応じ帰順。現在、土田氏を含めそのうち4名が健在。ペリリュー島での戦闘時は海軍上等水兵、最終階級は海軍二等兵曹。

 井上 和彦氏(いのうえ・かずひこ) 昭和38(1963)年、滋賀県生まれ。法政大学社会学部卒業。軍事・安全保障・外交問題などをテーマとしたテレビ番組のキャスター&コメンテーターを務める。軍事漫談家。『日本文化チャンネル桜』の「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、航空自衛隊幹部学校講師、東北大学大学院・非常勤講師。著書に『国民のための防衛白書』(扶桑社)、『東日本大震災秘録 自衛隊かく闘えり』(双葉社)、『日本が戦ってくれて感謝しています』(産経新聞出版)、『パラオはなぜ[世界一の親日国]なのか』(PHP研究所)など多数。