渡邊大門(歴史学者)

 前回に引き続き、日本に連行された朝鮮人の話である。おたあ・ジュリア以外にも、朝鮮人キリシタンは日本に存在した。朝鮮人キリシタンというよりも、日本に連行されてから入信したというのが正確である。

 その一人にコスモ竹屋という朝鮮人がいる。その生涯はほとんど分からないが、尾張国の武具師で宣教師の通訳を務めていたという(『日本基督教史』)。慶長19(1614)年に修道士やキリシタンが国外に追放されて以降、突如としてコスモ竹屋は史上に登場する。

 江戸時代になるとキリスト教信者は国外に追放されたが、元和4(1618)年の夏、彼らの中に密かに日本へ潜入する者があり、それは組織的なものであったという。同年10月、イエズス会のイタリア人宣教師、カルロ・スピノラが、ポルトガル人のドミンゴ・ジョルジの家で捕らえられた。同じ頃、朝鮮人のコスモ竹屋の家においても、日本に潜入していたオルスチとほか1人が捕縛された(『切支丹伝道の興廃』)。

 その後、スピノラは大村(長崎県大村市)に移送され、元和8(1622)年に西坂(長崎市)で殉教した。これが「元和の大殉教」といわれるものである。

 もう一人は、嘉兵衛つまりビセンテ嘉運である。嘉運は文禄・慶長の役の際、わずか13歳で朝鮮から日本に連行された、連行したのは、小西行長である。嘉運は行長のもとでキリスト教の教えを受け、慶長年間には北京や朝鮮にも滞在した。特に、北京での滞在期間は、4年にも及んでいる。その後、嘉運は日本に帰国し、イルマン(司祭職にあるパードレを補佐する役)として活動した。

 元和5年に禁教令が発布されると、状況は大きく変化した。日本に帰国した嘉運は、寛永2(1625)年に宣教師のゾラとともに捕らえられた。そして、火炙りの刑に処せられたという(『切支丹伝道の興廃』)。元和年間以降、キリシタンの処刑がたびたび行われていたが、その流れを受けるものであろう。
※写真はイメージ
※写真はイメージ(ゲッティイメージズ)
 最後に、カイなる人物を取り上げておこう。その来歴は、『日本西教史』に記載されているので、次に掲出しておく。

 カイは文禄・慶長の役で捕虜となって、日本にやって来た。仏門に入ったが、精神の安定を得られなかった。のちに教会の師父に奉仕し、第一の祈念としてライ病を患っている者の完治とした。宣教師が日本を追われると、ジュード右近(高山右近)にしたがってフィリピンに行ったものの、右近の死後は日本に潜入し、長崎に居住した。子供をキリスト教に導き、異教徒をキリスト教の信者となし、貧しい人を救ったが捕らえられ、1625年に処刑された。

 もちろん日本に連行された朝鮮人の中には、ほかにもキリスト教に入信した者が存在したであろう。したがって、ここに挙げた3人は、記録に残った幸運な部類に属するといえるのかもしれない。