朝鮮から連行した陶工によって発展した窯は、以上のものだけではない。たとえば、筑前高取焼は黒田氏が朝鮮から連行した陶工により始まったが、製作者の具体的な人名は分かっていない。また、長門萩焼は、毛利氏が朝鮮から連行した陶工・李敬が創始者であった。このように、今も脈々と受け継がれる伝統的な日本の窯業は、朝鮮から連れて来られた陶工たちによって、その礎が築かれたといえよう。

 日本に連行された朝鮮人の中には、近世以降、藩体制の中で重要な役職に登用される者もあった。金如鉄(のちの脇田直賢)がその人である。如鉄については、鶴園裕氏らの研究グループによりすでに多くの事実が掘り起こされているので、以下、それらの成果から紹介することにしよう(『日本近世初期における渡来朝鮮人の研究―加賀藩を中心に―』)。

 万暦14(1686)年、如鉄は翰林(かんりん)学士・金時省の子として、朝鮮帝都(漢城)で誕生した。翰林学士とは天子の秘書的な役割を果たし、また政治顧問の性格を有していた。如鉄がいかに恵まれた環境に誕生したかが分かるであろう。しかし、そんな如鉄を悲劇が襲う。文禄元(1592)年から始まった文禄の役によって、父・時省が戦死してしまうのである。悲劇はそれだけに止まらなかった。

 同年5月、如鉄自身は戦いの最中に宇喜多秀家の兵に捕らえられ、捕虜となったのである。秀家は朝鮮で多くの子供を生け捕りにしたといわれ、如鉄もその一人であり、まだわずか7歳の少年だった。同年12月、如鉄は日本の岡山へと連れて来られた。父を失い孤児になった如鉄は、いかなる心境だったのであろうか。

 翌年、如鉄は金沢の前田利家の妻・芳春院のもとに送られた。秀家の妻・豪姫は利家の娘だったが、いったん豊臣秀吉の養女となり、そして秀家の妻になった。やがて如鉄は、利家の長男・利長のもとに預けられ、名も日本風に九兵衛と改められると、慶長10(1605)年頃には230石の俸禄で近習奉公するようになった。

 前田家に仕えた如鉄にも、やがて転機が訪れる。同年、脇田重之(重俊)の姪と結婚し、脇田姓を名乗るようになった。そして、脇田直賢として一家を構えたのである(以下、如鉄で統一)。ところが、この頃讒言(ざんげん)によって、1年もの間、閉居を命じられた。ようやく許されたのは翌年のことである。芳春院の口添えによるものであった。

 以降、如鉄は子供にも恵まれ、一見して幸せそうに見えたが、正当な評価がなされなかった感もあり、悶々とした日々を送っていた。慶長19年に長年仕えた利長が亡くなると、引き続き養子の利常に仕えた。その直後、大坂の陣に参陣し大いに武功を挙げるが、その評価は必ずしも正しいものではなかった。
大阪城(ゲッティイメージズ)
大阪城(ゲッティイメージズ)
 その後、何度も藩に対して、武功を書き連ねた書上げを提出するが、わずかな恩賞が下付されるに過ぎなかった。ところが、寛永8(1631)年に大坂の陣における戦功について再検討が開始されると、如鉄の評価は大きく修正された。結果、如鉄は1000石を与えられ(570石の加増)、御鉄砲頭、御使番に命じられた。さらに、その後は算用場奉行などを経て、ついに金沢町奉行に任じられたのである。正保2(1645)年のことで、如鉄はすでに60歳という高齢に達していた。

 万治2(1659)年、如鉄は74歳で家督を嫡男・平丞に譲ると、直後に出家し、翌年に75歳で亡くなった。