如鉄は朝鮮の上流階級の家柄に誕生したことから、官僚としての能力も高く、また文芸に秀でていたという。慶長19年、江戸にあった芳春院は、山田如見を伴って金沢に帰ってきた。その際、如鉄は如見から、「源氏物語切紙伝授」と「古今伝授」を授けられたという。これは日本人でもなかなか叶わないことであった。また、発句をたびたび詠んだことが知られている。いかに如鉄が聡明に人物であったかを示していよう。

 如鉄のように技術者としてではなく、文官として如何なく能力を発揮した人物も記憶に留めておく必要がある。

 ここまでは、朝鮮人の男性を取り上げてきた。男性の方が、その履歴などが判明しているからである。以下、目を転じて女性に注目することとしたい。この分野では、金文子氏の研究を参照しながら、その実態を取り上げることにしよう(「文禄・慶長の役における朝鮮被虜人の帰還」「秀吉の朝鮮侵略と女性被虜」)。

 ここまで述べてきたように、捕らわれの身になった朝鮮人の身分は、実にさまざまである。官僚や学者もいれば、陶工などの技術者なども存在した。しかし、圧倒的に多かったのは、老若男女・子供を含めた農民ということになろう。彼らは戦闘員でないにもかかわらず、見境なく捕らえられ、日本に連行された。彼らのその後の生涯については、次のように分類されている。

A奴隷に売られ、もっとも悲惨な生涯を送った人

B幸いに生き長らえて、朝鮮に帰還を果たした人

C帰還のチャンスを逃し、日本社会に適応しながら、生活をせざるを得なかった人

 Cが最も多かったのではないかと考えられるが、Aも多かったと推測され、Bは最後に触れるが、必ずしも幸いとはいえなかったようである。

 強制連行された朝鮮人女性は、いかなる運命をたどったのか。その特徴については、次の5つのケースに分類されている。

①容貌や才能が優れていたため連行された女性

②戦争中に日本人と結婚したため来日した女性

③日本兵の性的欲求を満たすために連行された女性

④日本国内で労働に従事させるために連行された女性

⑤奴隷売買のため連行された女性

 ①については、豊臣秀吉が縫工などを要求していたという事実がある。才能に加えて美しい容貌であれば、高値で取引されたという。いずれにしても、売買の対象であったのには変わりがない。④は、男性ともども農作業などに従事させられた。①と④は、⑤との関連性が強いであろう。③については、可能性は否定できないが、史料的な裏付けが困難である。あるいは②との関係性があるかもしれない。

 Bについては、いくつかの例が知られているので挙げることにしよう。平戸の松浦鎮信は、朝鮮出兵時に釜山の京城を攻撃した。その際、小麦畑に美しい姫が潜んでおり、彼女らを捕らえて平戸に連れ帰ったという。彼女の本名は廟清姫といったが、のちに小麦姫と称された。そして、帰国後に鎮信と小麦姫との間に誕生したのが、のちに壱岐島主になった松浦信政である。
「壬辰倭乱図」(和歌山県立博物館提供)
「壬辰倭乱図」(和歌山県立博物館提供)
 同じような例は、ほかにもある。対馬・宗氏の家臣の一人に橘智正なる者があった。智正は、のちに文禄・慶長の役で朝鮮から連行した人々を送還する役割を担ったことで知られる。そもそも宗氏は朝鮮との関係が深く、橘氏もその配下にあって、朝鮮との親和性が強かったのかもしれない。彼の妻もまた、朝鮮の女性だった。

 朝鮮に出兵した吉川広家は、朴佑の娘を連れ帰り、侍女にしたという。こうした例は、ほかにもたくさんあるであろう。

 では、どのくらいの女性が日本へ連行されたのであろうか。朝鮮から連行された人々の数は実にさまざまであり、2、3万人から10万人以上まで開きが大きい。概して、日本側の見積もりは低く、朝鮮側は高い。『月峯海上録』という史料によると、日本に連行された男性は3、4万人とされ、女性はその倍になるという。フロイスの『日本史』を参考にすると、5万人程度になると推測されている。

※主要参考文献 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)