高森明勅(皇室研究家)

 いつ頃からだろうか。国民の一部が、皇室にあれこれ無遠慮に「注文」めいたことを、並べ立てるようになったのは。それでいて、既に皇室から与えられている恩恵に、国民として感謝するわけではない。まして、自分たちが皇室に対してどのように貢献できるかなどと、真面目に考える人は少ない。

 例えば、保守系の人士(じんし)が皇室祭祀(さいし)の大切さを力説する論調は、もはや珍しくなくなった。しかし、その皇室祭祀を経済的に支える内廷費が平成8年以来、20年以上も同額のまま据え置かれた、異常な状態にある事実を知っている人は、どのくらいいるだろうか。その問題点を舌鋒鋭く追及する声を、ほとんど耳にしないのはなぜか。

 そういう光景にうんざりした気分になるのは、恐らく私一人ではないだろう。

 天皇陛下は先頃、ひたすら国民のために何のご躊躇(ちゅうちょ)もなく、最も制約が多くご不自由で孤独で、極めて責任の重い「日本国の象徴」「日本国民の象徴」としての「天皇」という地位についてくださった。その厳粛な事実だけで、私ども国民は心から感謝すべきではないか。

 「期待」とは、望ましい状態や結果をあてにして、その実現を心待ちにすること(『明鏡国語辞典』)だ。それも形を変えた「注文」の一種ではあるまいか。ならば、天皇陛下「への」期待ではなく、皇室「から」国民はどのように期待されているか、ご期待にどのようにお応えすべきか、逆に胸に手を当てて反省してみるのも有益だろう。

 例えば、天皇陛下は皇室祭祀に実にご熱心に取り組んでくださっている。歴代天皇の中でも、とりわけ祭祀にご熱心だったとされるのが上皇陛下。その上皇陛下に決して引けを取らないご精励ぶりだ。陛下は、国家の公的秩序の頂点に位置する、最も高いお立場にあられながら、祭祀に誠心誠意お取り組みになることで、常に自分より上位の存在を自覚され、へりくだった清らかなお心を、深く身に付けておられる。それは驕(おご)りや高ぶりや弛(ゆる)みとは正反対の精神だ。
国民文化祭と全国障害者芸術・文化祭の開会式に臨席し、お言葉を述べられる天皇陛下と皇后さま=日午後、新潟市(佐藤徳昭撮影)
国民文化祭と全国障害者芸術・文化祭の開会式に臨席し、お言葉を述べられる天皇陛下と皇后さま=2019年9月16日、新潟市(佐藤徳昭撮影)
 そのようなご姿勢に、私ども国民も見習わなくてよいのか。もちろん、国民一人ひとりが直接、祭祀に携わることはできないし、その必要もない。しかし、心のありようは学ぶことはできるはずだ。陛下は精魂を込めて祭祀に打ち込んでください、われわれはそっぽを向いていますから、では話にならない。千分の一、万分の一でも、そのお心構えを見習おうとする態度があるか、ないかだ。

 「天皇の祈り」についても誤解があるのではないか。天皇陛下はわれわれ国民のために祈ってくださっている。有り難い。そこにとどまっているのではないか。自分らが「皇室のために」お祈り申し上げる、という気持ちがわずかでもあるだろうか。