呉善花(評論家、拓殖大教授)

 御代替わりにあたり、皇室の持続について考えてみたい。

 天皇が政治的な統治権力を行使できていたのは、長い歴史の中でわずかな期間でしかなかった。にもかかわらず、天皇は今日に至るまで、一貫して日本国の最高権威者としてあり続けてきた。なぜ、実質的な政治権力の掌握なしに、そのような権威の持続が可能となるのだろうか。

 皇室の歴史的な持続について考えてみて、私の場合はまず、その時代感覚の鋭さに気づかされた。これは柔軟性といってもよいが、皇室は単に伝統を維持するだけではなく、国民生活の時代的な変化の相を巧みに掌握しながら、自らの装いを新たにしつつ推移してきたように思う。

 時に臨み、成り行きの変化に応じ、どのように自らを処せばよいか、皇室はそこのところのセンスを何か本質的に抱え持っているように思える。

 宗教の面でいえば、天皇はあるときは神道の国家祭主のようにあり、あるときは仏教王のようにあり、また神秘的な密教への傾斜を見せられた天皇もある。また、上皇陛下が皇太子時代に選ばれたお后(美智子上皇后陛下)は、キリスト教精神に基づく教育理念を持つ学校を出られていた。

 時代感覚の鋭さでは、皇后についても天皇と同じことがいえる。国風(くにぶり)文化の隆盛とともに女性の手になる文学が登場するようになる平安中期の定子(ていし)皇后は、清少納言が一目置くほどのすぐれた知識と才能の持ち主で、ゆったりとした落ち着きを湛(たた)えた美人だったことが『枕草子』からうかがえる。美智子上皇后陛下のケースでも雅子皇后陛下のケースでも、それぞれの時代的な先端との絶妙な距離感を、皇室の「お后選び」の背景に感じとることができる。

 中世の後醍醐(ごだいご)天皇は、当時流行の風俗や宗教を身近におかれていた。生け花の前身である立華(りっか)は、近世初期の上皇の御所(仙洞御所)で始められた。近代の明治天皇は軍服に身を包まれ、現代の上皇陛下は生物学の研究に熱心に取り組まれ、今上陛下は英国留学生時代より貧困問題や環境問題に連動する世界的な水問題に取り組まれてきた実績を持つ。いずれも、皇室の時代感覚の敏感さを物語るものといえるのではないだろうか。
笠置寺の後醍醐天皇行在所跡に立つ歌碑=京都府笠置町(恵守乾撮影)
笠置寺の後醍醐天皇行在所跡に立つ歌碑=京都府笠置町(恵守乾撮影)
 ある時代の文化・社会・支配形態などに対応する皇室の臨機応変さは、長きにわたって天皇の権威を持続させてきた大きな要因として、けっして無視することはできないだろう。また、国民統合の象徴としての天皇が国民の圧倒的な支持を得ているのも、伝統の持続とともに、そうした時代に対する向き合い方の的確さがあってこそのことではないかと思う。

 皇室の持続に時代感覚の鋭さが果たした役割は大きい。が、それ以上に、皇室は時代の異なりを超えていつの世にも日本人の心と共鳴する、ある種の決定的な精神性を抱え込んでいると思える。だからこそ、少なくとも千数百年にわたるだけの永続性を可能としてきたのではないか。たとえば『源氏物語』が、古代、中世、近世、近代、現代と、いつの世にも優れた文学として読み継がれてきたところにも、同様の要因が潜んでいるだろう。

 そもそも民族(エスニシティ)の基本的な資質というものは、民族的な文化の統一性が形成された時点で形づくられ、以後の民族文化はそれを基盤にさまざまな展開を見せるようになっていったと理解される。それでは、日本の民族的な文化の統一性はいつ頃形成されたのか。