斎田の選定では、47都道府県を東西に分け、亀の甲羅で占う「斎田点定の儀」によって、それぞれから「悠紀国(地方)」「主基国(地方)」がまず選ばれる。その地の水田から斎田が決められ、「斎田抜穂(ぬきほ)の儀」で収穫された稲の新米が皇居へと運ばれる。今回の斎田は栃木県高根沢町大谷下原と京都府南丹市八木町氷所新東畑の水田が選ばれた。

 大嘗宮は伝統的に木造建築で統一されてきたが、今回は神前に供える食事を調理する膳屋と、新穀を保管する斎庫(さいこ)をプレハブ(鉄骨造)としたこと、さらには、正殿の屋根を茅葺きから板葺きへと変更したことが物議を醸している。

 こうした経費節減でも人件費、資材価格の上昇を吸収しきれず、建設費は前回の14億円を超える見通しだというのが宮内庁の見解だ。

 古来、大嘗宮は大嘗祭に先立つ1週間前から悠紀・主基国の人々の手によって5日間で完成させる黒木造りの簡素な形式だった。大正天皇の大嘗祭にかかわった民俗学者、柳田國男は古くからの伝統に近代的な要素が入り込んでいることも指摘しており、伝統と新儀の調和が歴史と文化をつくるともいえるので、何が正解であるかは時代とともに常に論じられることでもある。

 今回プレハブとする膳屋と斎庫も、他の木造殿舎との違和感で儀式の雰囲気を損なうことがないよう、外装をむしろ張り、白帆布張りとするという。ただ、直接神事とは関係しない膳屋や斎庫と違い、正殿の造りは五穀豊穣を祈願する大嘗祭の意義にも関係する。伝統儀礼の破壊ではないかという疑問はやはり残る。

 〝大嘗〟(おおにえ)という言葉が最初に出てくるのは「古事記」に登場する「天の石屋戸(あめのいわやど)」神話である。スサノヲが、天照大神の水田を壊し、天照大神が大嘗を召し上がる神殿も穢(けが)すなどの悪行を続けたため、怒った天照大神が石屋戸の中に入って出てこられず、この世は真っ暗闇になってしまったという有名な話である。ここにある大嘗とは、「日本書紀」には新嘗と記されていることからも新嘗祭の意味であることがうかがえる。

 その後も、「日本書紀」には幾度か大嘗や新嘗の文言が登場するが、大嘗祭が一代一度のものとして確認できるのは持統(じとう)天皇からだといえる。持統天皇の夫であった前代の天武(てんむ)天皇が即位したあとの初めての秋に播磨・丹波の二国の人たちが参加する大嘗祭を行っていたという記載があるものの、翌年以降にも二度同じような記述が見られ、一代一度の大嘗祭とは考えにくい。

 天武天皇の御代に大嘗祭の原型が形成され、持統天皇の御代から天皇一代一度の大祭となったと考えるのが妥当であろう。古代国家から律令国家へと移行していく過程で大嘗祭が確立されていくことになったと考えれば納得できる。当時の律令国家とは今で言うところの近代国家であり、天皇即位において初めての新嘗祭を国家祭祀として盛大に執り行うようになっていったのだろう。皇室祭祀にとって一つの転換期であったことがうかがえる。

 一連の皇位継承儀礼を締めくくる最も重要な祭祀儀礼とされる大嘗祭であるが、「天皇は大嘗祭を終えてから正式な天皇になる」という見解をしばしば目にする。すなわち大嘗祭を終えていない天皇は「半帝」であり完全な天皇とはいえない、大嘗祭は真に天皇としての資格を獲得する儀式であるという。
皇位継承に伴う重要祭祀「大嘗祭」で使われる新米を納める「新穀供納」の行事=2019(令和元)年10月15日、皇居・東御苑(代表撮影)
皇位継承に伴う重要祭祀「大嘗祭」で使われる新米を納める「新穀供納」の行事=2019(令和元)年10月15日、皇居・東御苑(代表撮影)
 その根拠の一つとされているのが、天皇在位期間が即位からわずか78日間と歴代最短で、即位式も大嘗祭も行われなかった仲恭(ちゅうきょう)天皇(1218~1234年)である。明治3年に諡号(しごう)されるまで「半帝」などと呼ばれることもあった。仲恭天皇は4歳で父の順徳(じゅんとく)天皇から皇位を継承したが、直後に順徳帝らが承久(じょうきゅう)の変を起こし、鎌倉幕府の意向で譲位して母の実家である九条家で過ごして17歳で崩御された。

 ただ、この一例だけで、大嘗祭が完全なる天皇となる儀式という説が広まったわけではない。前述の通り、天皇一代一度の祭礼として大嘗祭が執り行われたのは天武天皇から持統天皇の頃であるし、応仁の乱(1467~1478年)後は221年間も大嘗祭が行われていなかった。