渡邊大門(歴史学者)

 女優の薬物事件による降板でスタートが延期されたが、来年1月から、明智光秀を主人公としたNHK大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』が放映される。大河ドラマが放映されると、主人公のゆかりの地には観光客が押し寄せ、経済的に潤う。それは結構なことである。しかし一方で、観光客を呼び込むため、根拠のない俗説を強調することも珍しくない。こちらは、悲劇である。

 もう一つの悲劇は、本能寺の変の関連本である。プロ・アマ入り混じって関連書籍を刊行しているが、デタラメな内容のものも少なくない。すでに否定された説を壊れたカセットデッキのように、何度も繰り返し刊行されている例も見受けられる。現在、残っている史料からは、すべての黒幕説は否定されている。

 光秀を語るうえで、重要なポイントは出自の問題である。光秀が土岐明智氏の流れを汲むことは、所与の前提とされている。はたして、それは正しいのだろうか?

 一般的に光秀は、美濃の名門一族である土岐氏の流れを汲む、土岐明智氏の出身といわれている。土岐氏は清和源氏・源光衡(みつひら)の末裔(まつえい)であり、鎌倉時代に美濃国土岐郡に本拠を構えた。以降、土岐氏は美濃に勢力を拡大し、室町幕府が成立すると美濃国に守護職を与えられ、三管四職家(管領または侍所の所司になれる家柄)に準じる扱いを受けた。

 実際に土岐氏は、侍所の所司を務めたこともある。14世紀中後半の土岐頼康の代には、尾張・美濃の守護も兼ねた。ところが、天文11(1542)年に当主の頼芸(よりなり)は、配下の斎藤道三によって美濃から追放された。これにより事実上は滅亡したものの、土岐氏は名族にふさわしい家柄である。

 土岐明智氏は美濃国の名門で守護を務めた土岐氏の支族で、室町幕府の奉公衆の一員でもあった。奉公衆は室町幕府における御目見以上の直勤御家人で、五番(五つの部隊)に編成されていた。

 日常の奉公衆は番の隊長である番頭のもとで、御所内の諸役や将軍御出の供奉などを務め、戦時には将軍の親衛隊として出陣する直属の軍事力でもあった。後年、信長に仕え重用された光秀にとっては、相応な出自といえるのかもしれない。
大阪府岸和田市の本徳寺に明智光秀像として伝わる肖像画(模本、東大史料編纂所蔵)
大阪府岸和田市の本徳寺に明智光秀像として伝わる肖像画(模本、東大史料編纂所蔵)
 では、光秀の父はどのような人なのだろうか。その点は、数多くの明智氏の系図に触れられている。次に、代表的な系図を挙げることにしよう。

 ①光綱――『明智系図』(『系図纂要』所収)、『明智氏一族宮城家相伝系図書』(『大日本史料』一一―一所収)
 ②光隆――『明智系図』(『続群書類従』所収)、『明智系図』(『鈴木叢書』所収)
 ③光国――「土岐系図」(『続群書類従』所収)

 これらの系図によると、光秀の父の名は、①光綱とするもの、②光隆とするもの、③光国とするもの、の3つに分かれており確定していない。そうなると、光秀の父の名前が一次史料に登場するかがカギとなる。

 しかし、彼ら3人のうち1人でも登場する一次史料は、管見の限り見当たらなかった。裏付けとなる一次史料がない以上、3人のうち誰が光秀の父であるかを考えても、正確な結論に至るとは思えないので、あまり意味のある作業とはいえないかもしれない。