『明智氏一族宮城家相伝系図書』には、光秀が享禄元年8月17日に誕生し、石津郡の多羅で誕生したと記す。ただ、父は進士信周(しんし・のぶちか)、母は光秀の父・光綱の妹だったと記す。病弱だった光綱は、40歳を過ぎても子に恵まれなかった。そこで、光綱の父・光継(光秀の祖父)は光秀を光綱の養子とすることを決意し、家督の後継者にしたという。

 こちらでは、光秀が養子だったとする。進士信周については不明であるが、奉公衆の出身であり、幕府との関係を示唆する。また、光秀の譜代の家臣には進士貞連(さだつら)がおり、光秀の死後は肥後藩の細川興秋(忠興の次男)に仕えた。

 誕生した日付を除けば合致しており、ほかの系図もおおむね享禄元年誕生説を唱えている。後述する『明智軍記』も、享禄元年誕生説である(天正10年に55歳で没したと記す)。ただ、上記の諸系図の記載には、いささか疑問が残る。

 たとえば、光秀の母の兄とされる武田義統の誕生年は、大永6(1526)年である。義統の妹はさらに若いはずなので、明らかに年代的に矛盾している。光秀が享禄元(1528)年生まれであるならば、義統の妹は光秀の母であるはずがない。

 なぜこうなったのか理由は不明であるが、義統の子息・元明は天正10(1582)年6月の本能寺の変で光秀に与した。もしかしたら、そういう縁から光秀と武田氏を結び付けようとしたのかもしれない。

 実は、享禄元年生誕説を唱える編纂物は、ほかにもある。それは、『明智軍記』である。すでに半世紀以上も前、古典的名著『明智光秀』(吉川弘文館)の著者として知られる高柳光壽(みつとし)氏は、『明智軍記』を信頼できない悪書(「誤謬充満の悪書」と記す)と指摘した編纂物である。たしかに『明智軍記』は誤りが多いので、歴史史料として用いるのには躊躇(ちゅうちょ)する史料である。

 『明智軍記』は元禄6(1693)年から同15年の間に成立したとされ、作者は不詳である。光秀が亡くなってから、おおむね100年以上を経過している。光秀を中心に取り上げた軍記物語はほかになく、そういう意味では貴重な史料といえるのかもしれない。

 ただし、『明智軍記』が拠った史料には、『江源武鑑(こうげんぶかん)』のようなひどい代物がある。何より同書にはユニークな話が多々書かれているが、それらは一次史料で裏付けられず、また、ほかの記述内容も誤りが非常に多い。

 『当代記』には、光秀の没年齢を67歳であると記している。つまり、永正13(1516)年の誕生となる。『当代記』は著者が不明(松平忠明?)で、寛永年間(1624~44)頃に成立したと考えられている。
京都・小栗栖で落ち武者狩りにあう明智光秀=『国史画帖大和桜』(昭和10年刊)より
京都・小栗栖で落ち武者狩りにあう明智光秀=『国史画帖大和桜』(昭和10年刊)より
 当時の政治情勢や大名の動向などを詳しく記しており、時代が新しくなるほど史料の性質は良くなっていくが、残念ながら信長の時代については、史料的な価値が劣る儒学者の小瀬甫庵『信長記』に拠っている記事が多い。したがって、そのような性質は考慮しなくてはならないだろう。比較のうえでは、先の系図類よりも『当代記』が良質であるが、正しいという保証はない。

 小瀬甫庵『信長記』は元和8(1622)年に成立したといわれてきたが、今では慶長16、17(1611、12)年説が有力である。『信長記』の成立が10年ほど古いことが立証され、これにより『信長記』の史料性を担保する論者もいるが、成立年の早い遅いは史料の内容を担保するものではない。