同書は広く読まれたが、創作なども含まれており、儒教の影響も強い。太田牛一の『信長公記』と区別するため、あえて『甫庵信長記』と称することもある。そもそも『信長記』は、太田牛一の『信長公記』を下敷きとして書いたものである。

 しかも、『信長公記』が客観性と正確性を重んじているのに対し、甫庵は自身の仕官を目的として、かなりの創作を施したといわれている。それゆえ、『信長記』の内容は小説さながらのおもしろさで、江戸時代には刊本として公刊され、『信長公記』よりも広く読まれた。現在、『信長記』は創作性が高く、史料としての価値は劣ると評価されている。

 『綿考輯録』(めんこうしゅうろく)では、光秀が57歳で没したという。したがって、誕生年は大永4(1524)年になろう。『綿考輯録』には若き頃の光秀の姿がたびたび描かれているが、信頼に足る史料なのだろうか。

 『綿考輯録』は安永年間(1772~81)に完成した、細川藤孝(幽斎)、忠興、忠利、光尚の四代の記録である。編者は、小野武次郎である。熊本藩・細川家の正史と言っても過言ではない。これまでの研究によると、忠利、光尚の代は時代が下るので信憑性が高いかもしれないが、藤孝(幽斎)あるいは忠興くらいの時代になると問題になる箇所が少なくないと指摘されている。それは、なぜだろうか。

 その理由は、『綿考輯録』を編纂するに際しておびただしい量の文献を参照しているが、巷間(こうかん)に流布する軍記物語なども材料として用いられているからだ。

 たとえば、先に取り上げた『明智軍記』は、その代表だろう。『総見記』などの信頼度の低い史料も多々含まれている。『綿考輯録』の参考書目を見ると、多くの史料類や編纂物が挙がっているが、玉石混交なのは明らかである。

 『総見記』は『織田軍記』などともいい、遠山信春の著作である。貞享2(1685)年頃に成立したという。甫庵の『信長記』をもとに、増補・考証したものである。史料性の低い甫庵の『信長記』を下敷きにしているので、非常に誤りが多く、史料的な価値はかなり低い。今では顧みられない史料である。

 加えて、『綿考輯録』は細川家の先祖の顕彰を目的としていることから、編纂時にバイアスがかかっているのは明らかである。この点は、大名の家譜類では避けられない現象である。つまり、『綿考輯録』は扱いが難しい書物であり、光秀の記述については慎重になるべきだろう。細川家の正史だから、正しいという保証はないのである。

 結論を言えば、光秀の誕生年については、おおむね永正13(1516)年から享禄元(1528)年の間とくらいしかいえない。しかも、「二次史料に拠る限り」という留保付きであり、今後、光秀の誕生年をうかがい知る一次史料の出現を待つしかないだろう。

 これまでの光秀の先祖や生年については、さまざまな二次史料が使われてきた。それぞれの史料には難があり、にわかに信を置くことはできない。裏付ける一次史料がない以上、光秀の先祖や生年は不明とせざるを得ないのである。

主要参考文献
渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書)
渡邊大門『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』(草思社文庫)