石段を登り本丸へと行き着くと、そこには唐様の御殿と将軍館がある。「玉石を研(みが)き、瑠璃(るり)を延べ、百官快く貴美を尽くし、花洛を移させられ、御威光・御手柄あげてかぞう(数える)べからず」

 唐様の御殿というのは、おそらく天主の一段下に礎石群が残る「清涼殿」だろう。礎石の配置が線対称で左右逆転してみると京・内裏の清涼殿のそれと相似しているため、信長が安土城内に同じ物を造ったと考えられているものだ。詳細は「iRONNA」に前編集長による非常に興味深い論考があるため、ご参照いただくとよいだろう。これは天皇の政務・儀式の場になる。

 そして、将軍館は武家の棟梁(とうりょう)の政務の屋形だ。

 清涼殿と将軍館。公武の対になった政治のベースに百官(朝廷の文武百官)ら京をそのまま移す構想が高らかに宣言された。これは第18回で触れた「安土へ内裏様行幸申され候わん」という皇室行幸計画とリンクしている。将軍館は、当面信長の政務の場となり、やがては嫡男の信忠に引き継がれる構想だったと想定できる。

 つまり、前述の大手道の石仏は、天皇も踏むことが前提となっていた。これは、国家鎮護の仏教を保護し皇族を寺院の門跡として送り込んで来た朝廷の歴史を真っ向から否定するロジックの象徴だっただろう。「仏教国家・日本」からの脱却宣言である。信長は朝廷と仏教の関係をもいったんリセットし、自分の支配論理の中でそれを再構築しようと考えていたのだ。

 「天皇(みかど)と言えども、余の政策の下に御座す(おわす)」

 その思考を、さらに具体的に形にしたのが、天主だ。後の時代になると天守、天守閣と呼ばれる城郭中の最高建築物、城郭の象徴として扱われ城主の居住空間ではなくなった天主だが、信長はこれを居住空間とした。その字も「天の主」が住まうプライベート空間が、清涼殿と将軍館を上から見下ろす形になる。信長は天皇と将軍、公武のツートップを足元に従えて天下に君臨する自分の姿を思い描いた。
安土城「清涼殿」跡=滋賀県近江八幡市安土町(筆者撮影)
安土城「清涼殿」跡=滋賀県近江八幡市安土町(筆者撮影)
 それでは、天主の中に入ってみよう。これについては、『信長公記』の中に「安土山御天主の次第」という詳細な記録がある。

石くらの高さ十二間余りなり。
一、石くらの内を一重土蔵に御用い、是より七重なり。
二重石くらの上、広さ北南へ廿間、西東へ十七間、高さ十六間。ま中に有る柱数二百四本立つ。本柱長さ八間、ふとさ一尺五寸、六寸四方、一尺三寸四方木。
御座敷の内、悉(ことごと)く布を着せ黒漆なり。
西十二畳敷、墨絵に梅の御絵を狩野永徳に仰付けられ、かゝせられ、何れも下より上迄、御座敷の内御絵所悉く金なり。同間の内御書院あり。是には遠寺晩鐘の景気かゝせられ、其前に、ぼんさんををかせられ、次四でう敷、御棚に鳩の御絵をかゝせられ、又十二畳敷、鵝(がちょう)をかゝせられ、則鵝の間と申すなり。又其の次八畳敷、
奥四てう敷に雉の子を愛する所あり。
南又十二畳布、唐の儒者達をかゝせられ、又八でう敷あり。
東十二畳敷、
次三でう布、
其次、八でう敷、御膳拵(こしら)へ申す所なり。
又其次八畳敷、是又御膳拵へ申す所なり。
六でう敷、御南戸、又六畳敷、
何れも御絵所金なり。
北ノ方御土蔵あり。其次御座敷、
廿六でう敷の御南戸なり。西は六でう敷、
次十でう敷、叉其次十でう敷、
同十二畳敷、御南戸の数七つあり、
此下に、金燈炉をかせられたり。


 ここまでが天主地下1階と地上1階の様子だ。ひとまずこの部分について解説しようと思うが、紙数の関係で次回に続く。