この話を使って日本の学校では、責任を問う。研究のために訪問した学校のある小学6年生のクラスでは、1人を除いてクラス全員がお金を忘れた宏くんに責任があり、亮くんも2人の大人も悪くないという結果になった。

 もちろん、授業の進め方はノルウェーでも各人によるが、ある教師に話を聞くと、教師としての個人意見を述べるよりも、児童たちに自由に話し合いをさせたり問題提起したりすることで、児童たちが深く考える機会を作らせることに心を砕くだろうということだった。話し合いをさせているうちに、教師がなるほどと気づくこともあるかもしれないし、同時に児童たちが他の人の意見も聞くということを学べるだろうという理由からだった。

 そうして出したノルウェーの子供たちの答えは、同じ小6であっても、日本の児童と大きな違いがあった。忘れ物はいけないし、宏くんはポケットをよく調べるべきだったが、他の3人にも責任があるというのが圧倒的多数を占めたのだ。

 亮くんは友達なのに冷たいし、運転手も融通がきかないという感想だった。その上で、支払いをした乗客と同じく、相手は子供であることを考慮すべきだったと指摘したのだ。

 教師の対応も、まず公平にそれぞれの子供たちの意見を聞くことに努めている。たとえ日本の子供のように「宏くんが一番悪い」といった多数派と違った意見であっても、あえてそれを直そうとはせず、そのまま受け入れていくのである。

 不完全さを受け入れられる「土台」は、何も教育だけにある話ではない。ベルゲン市内で、子供向けの手作り人形劇をボランティアで続けている知人がいる。手作りだけあって、劇が行われる幼稚園や地域の集会所では、子供から大人まで誰もが人形作りに参加できる。
※写真はイメージです(ゲッティイメージズ)
※写真はイメージです(ゲッティイメージズ)
 彼の作る人形も決して高度な技術を使うこともないので、多少のゆがみも左右非対称も気にしない。材料にしても、古新聞やトイレットペーパーの芯なども使い、素朴で温かみがある。舞台装置も大きな段ボールを切り抜いて作ったものだ。

 劇を披露する段になれば、舞台を裏から支える役回りを、見学者が名乗り出て引き受けてくれる。こうして、人形劇の場から、高齢者から子供までお茶を飲みながら楽しく談話でき、子供連れの家族もゆったりと日曜日の午後を過ごす土壌が生まれるのである。