ノルウェーでも専門家が素晴らしい人形劇を各地で行っているが、なぜ彼の作るような素朴な劇も受け入れられるのだろうか。それは、子供たちが自分にも作れるという自信が湧き、想像力を働かせて、発達過程における子供自身の成長と教育に役立つからだそうだ。材料も家庭で普段使うものだから、さほど苦労もせずに見つけることができる。

 クリスマスが近づくと、欧米ではジンジャー・ブレッド(生姜入り菓子)を焼いて、それで家を作って盛り上げるのが定番だ。ベルゲンでもクリスマスの1カ月前から、毎年恒例のジンジャー・ブレッドでできたベルゲンの街が展示されるが、開催前に市民の作ったジンジャー・ブレッドの家を公募している。

 選ばれた中には本格的で立派な家もあるが、私と幼少期だった息子と作ったささやかな家も展示されたこともあった。こうして、個人から幼稚園、学校など誰でも自由に作った作品が街に飾られるのである。

 他にも多くの例がある。公共交通機関で遅れが出ても、多少のロスは誰も気にしないし、横断歩道などは日本のように完璧な白線を引いてあるとは限らない。多くのノルウェー人にとっては、線が何を示しているか分かれば十分であり、多少の歪みがあっても問題はないのだ。

 ところが日本では、あらゆる場面で完璧を求められる。日本の鉄道では、運転手がトイレに行く時間もなく、乗務員は常に時間厳守を強いられている。懲罰的な運転士教育や過密ダイヤが問題視された2005年の尼崎JR脱線事故を覚えている人も多いだろう。

 学校でも、子供たちの行為が一点の曇りもないように指導し、一般教師はおろか、学校教育に携わるリーダーたちも子供の権利に関する知識に乏しく、かえって強制行為を正当化していることは先述した通りだ。
ノルウェー・ベルゲンのクリスマス風景(ゲッティイメージズ)
ノルウェー・ベルゲンのクリスマス風景(ゲッティイメージズ)
 このように、日本人は学校や職場では、教師や上司から叱責や処罰を受けないように、完全を目指して最大限の努力を払う。ただ、自宅に戻れば、逆に憂さ晴らしができるようになっている。

 このような環境では、不幸な事件が連続するだけである。多少の間違いは大目に見ること、また多少の「乱れ」も受け入れることが、日本に真のゆとりある社会を形成するにあたり、重要ではないだろうか。