こうした規範が曖昧な状態は、何も東京新聞に限った話ではありません。私たち日本人は、とにかく規範を持つことが苦手なのです。

 「在野の天才学者」とも評された評論家の小室直樹氏は、日本人は規範を持てないため、最も規範から遠い存在である「空気」が規範の代替物になるという摩訶不思議なことが生じていると主張します。

 なんとなれば、「空気」(Anima, pseuma)はその内容が一義的に明示されず、なんらの原則を有しないという意味で、組織神学的にはこれほど教義から遠いものはない。また、常に社会状況や人間関係にも依存しており、それから析出された存在になることはできませんから、この意味でもキリスト教的な教義とは正反対である。ところが、構造神学的にいえば、「空気」は規範的に絶対であって所与性をもちます。「それが空気だ!」ということになると誰も反対はできず、「空気」に逆らうことは、とんでもなく悪いことだとされる。


 同様の主張は、外国人である識者からも寄せられています。

 日本人は、日本の社会・政治秩序を評価する手段として、法律や、宗教、あるいは体系的に理路整然とした知的探求法といったものを一貫して用いることはしないから、それを評価するためには結局身近な社会環境から発生する要求やその命ずるものにもとづく日常生活上の“諸現実”を用いるほかない。


 要するに、一神教が示すような、明確な規範が見当たらないわけです。だから、その場に流れる空気や、その時々の状況が重要になってきます。

 こうなると、規範ではなくて、所属している集団の何となくの政治的スタンスや空気、状況といったものが主張の内容を決定づけることになりかねません。

評論家の小室直樹氏=2002年2月撮影
評論家の小室直樹氏=2002年2月撮影
 それは主張を発する側だけの話ではありません。日本人は規範を持つことが苦手な以上、その主張を受け止める人たちも一緒です。良し悪しの基準となるはずの規範を用いて、ある主張の賛否を決定することができないのですから、主張の内容の検討は困難になります。

 結果、主張の内容ではなく、「誰が主張しているのか」や「周囲の空気」といった、内容以外の要素によって賛否が決まりがちになるわけです。言うまでもなく、政治思想が違う相手であったとしても、確固たる規範に照らし合わせた結果、時には賛意を表明するのが言論というものでしょう。ですから、こうした姿勢はいかがなものかと言わざるを得ません。