まずは政治に直接携わったり、強い関心を持つ人たちが、各思想の本家本元をしっかりと理解すること。次に、それらを日本に定着させようとした先人たちの仕事を引き継ぎ、自分のものとすること。

 そして、可能であれば、先人たちの仕事を発展させること。かなりの遠回りのように思えますが、こうした仕事をしてはじめて「思想」をつかむことができ、自らの主張の依って立つ場所、つまり規範を得られるのではないかと思います。

 難しい工程ですが、政治に強い関心を持つ人であれば、十分に可能だと思います。この仕事を進める方が一人でも増えれば、建設的な言論空間の発展に一歩近づくはずです。

 蛇足かもしれませんが、最後に左右両陣営の思想について触れておきます。西部氏が主宰した『発言者』塾(後の『表現者』塾)に参加していた雜賀風紗子氏は、次のような回想録を残しています。

 西部先生は丁度『ファシスタたらんとした者』へのあとがきを書き終えられた時で、「結語に代えて―信仰論」の内容をかなり丁寧に再述して下さった。そして最後にご自身の認識について次のようにおっしゃった。
 私は「考えること、疑うこと」を止められないという意味では合理主義者であることを免れない類なのだが、ただし考え疑うに当たってもその前提が必要であり、そしてどんな前提も(根本的なものは)合理からはやってこないと知っている。



 基本的に、本家本元の保守思想は理性(合理的な思考)を疑う一方で、リベラルは理性を信頼します。しかし、合理的であろうとすればするほど、合理ではどうにもならない前提が立ちふさがります。これは、この上なく論理的で客観的に思える数学でさえ同様です。

評論家の西部邁氏=2001年1月(頼光和弘撮影)
評論家の西部邁氏=2001年1月
(頼光和弘撮影)
 西部氏は、この前提を探るため経済学(社会科学)から離れ、保守思想の道に進みました。保守思想には、前提を決めることのできる非合理的な知恵があると見なしたからでしょう。

 合理的であろうとすれば、非合理的な前提をつかむ必要があります。非合理的な前提さえあれば、ある程度は合理的に物事を考えることができます。このことは、保守とリベラルが相反するどころか、むしろ両者は車軸の左右につく車輪のようであり、双方がないと前に進まないことを示唆しています。

 このように、ダブルスタンダードに思える言動が減少するには、左右両陣営が規範をきちんと設定できるかどうかにかかっています。そうすれば、不毛な罵詈雑言の応酬も少なくなるはずでしょう。